●文徴明
美術人名辞典
文徴明
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デジタル大辞泉
ぶん‐ちょうめい【文徴明】
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世界大百科事典 第2版
ぶんちょうめい【文徴明 Wén Zhēng míng】
中国,明代の文人,書画家。蘇州府長洲県(現,江蘇省呉県)の人。初め名は璧,字は徴明であったが,のちに広く字で知られたため,さらに字を徴仲と改めた。号は衡山,停雲生など。父の文林は成化8年(1472)の進士で温州知府に終わった。文徴明は詩文を呉寛に,書を李応禎に,画を沈周(しんしゆう)に学んで三絶と称賛され,祝允明,唐寅,徐禎卿とともに呉中四才子といわれたが,科挙には10回応じてついに合格しなかった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
文徴明
ぶんちょうめい
Wen Zheng-ming
[没]嘉靖38(1559).2.20.
中国,明の文人画家,書家,詩人。長洲 (江蘇省蘇州) の人。名は璧,字は徴明,徴仲,号は衡山など。 10回にわたり科挙試験を受けたものの失敗,嘉靖2 (1523) 年,翰林院待詔の任につき『武宗実録』の編修に従事したがわずか3年で辞職,郷里に隠棲して書画を楽しみ悠々自適の生活をおくった。絵は沈周 (しんしゅう) に学び,呉鎮,趙孟 頫 (ちょうもうふ) の影響を受けながらも,その作品の大部分は淡中墨と擦筆描が用いられ,淡い色彩と平明な自然描写を特色とする。明代を代表する南宗画の第一人者となり,大人の風格をもつその人柄によって周辺には多くの友人,弟子が集り,呉派文人画の全盛期をもたらした。書は李応禎に学び篆 (てん) ,隷,楷,行,草の5体を書き,特に楷書を得意とした。日本に将来され江戸時代の唐様書道に大きな影響を及ぼした。詩は祝允明 (しゅくいんめい) らとともに呉中の四才子と称された。著書に『甫田集』 (35巻) がある。代表作『春深高樹図』 (上海博物館) ,『絶壑高間図』 (台北,故宮博物院) 。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
文徴明
ぶんちょうめい
(1470―1559)
中国、明(みん)代中期の文人、書画家。初名は璧(へき)、徴明は字(あざな)。のち字をもって行われ、さらに徴仲(ちょうちゅう)と字を改めた。号は衡山(こうざん)。長洲(江蘇(こうそ)省蘇州)の人。科挙の試験に数度失敗したが、1523年(嘉靖2)翰林待詔(かんりんたいしょう)を授かる。ほどなく致仕して帰郷、詩書画の世界に没入した。彼の人徳とその才を慕って多くの文人が集まり、詩書画に華を咲かせることとなった。祝允明(しゅくいんめい)、徐禎卿(じょていけい)、唐寅(とういん)、王寵(おうちょう)らがその仲間となる。これは蘇州文人サークルの形成といってよく、これをもとに明代呉派の南宗画風が発展していった。書は李応禎(りおうてい)に学ぶも、王羲之(おうぎし)、黄庭堅(こうていけん)、趙孟頫(ちょうもうふ)の長所をよくとり、評判高かった。彼に唐寅、祝允明、徐禎卿をあわせて「呉中四才子」とよぶ。詩文を呉寛(ごかん)に学ぶ。画(え)は沈周(しんしゅう)の影響を受けたがさらに独自に発展させ、淡彩・淡墨による細やかで秀麗な画風をつくりあげた。子の文彭(ぶんぽう)(1498―1573)、文嘉(ぶんか)(1499―1582)も書画をよくした。画の代表作に『春深高樹図』(上海(シャンハイ)博物館)がある。
[近藤秀実]
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精選版 日本国語大辞典
ぶん‐ちょうめい【文徴明】
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