●斉明天皇【さいめいてんのう】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
斉明天皇
さいめいてんのう
[没]斉明7(661).7.24. 筑紫
第 37代の天皇,女帝 (在位 655~661) 。第 35代皇極天皇の重祚。第 34代舒明天皇の皇后。名は天豊財重日足姫尊 (あめのとよたからいかしひたらしひめのみこと) ,諱は宝,敏達天皇の曾孫にあたる。茅渟 (ちぬ) 王の娘,母は吉備姫王。初め高向王にとついで漢皇子を生んだが,のち舒明天皇の皇后となり,中大兄 (のち天智天皇) ,大海人 (のち天武天皇) 両皇子を生んだ。舒明天皇の没後,蘇我氏が古人皇子の即位を企てたが,反蘇我派が台頭して皇極1 (642) 年1月皇極天皇の即位が実現した。最初大和小墾田 (おはりだ) 宮を皇居としたが,翌2年4月大和飛鳥板蓋 (あすかいたぶき) 宮に移った。当時,蘇我入鹿の権力が強く,山背大兄王を斑鳩宮に攻めて自殺させるなど横暴が続いたが,同4年6月中大兄皇子らが蘇我氏を滅ぼすと,天皇は皇位を弟軽皇子 (孝徳天皇) に譲った。孝徳天皇の没後,重祚して斉明天皇となる。女帝は都を飛鳥に復したが,その冬,板蓋宮が炎上したため飛鳥川原宮に遷御し,翌年飛鳥後岡本宮に移った。また,対外問題が困難となったため,斉明4 (658) 年,阿倍比羅夫をつかわして蝦夷を2回,粛慎 (みしはせ) を2回討伐したといわれる。一方,唐,新羅連合軍に攻められた百済の求めに応じ,同7年,百済救援軍を送り,天皇みずから筑紫朝倉に向ったが,救援軍進発の直前,朝倉橘広庭宮で崩御。陵墓は奈良県高市郡高取町の越智崗上陵。
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朝日新聞掲載「キーワード」
斉明天皇
(2013-05-25 朝日新聞 朝刊 1社会)
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デジタル大辞泉
さいめい‐てんのう〔‐テンワウ〕【斉明天皇】
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus
斉明天皇 さいめいてんのう
孝徳天皇のあと,皇極(こうぎょく)天皇が重祚(ちょうそ)。中大兄(なかのおおえの)皇子(のち天智天皇)が皇太子として国政にあたる。阿倍比羅夫に蝦夷(えみし)や粛慎(みしはせ)を討たせ,朝鮮半島に百済(くだら)救援軍を派遣する(663年白村江の戦いで敗れる)。斉明天皇7年7月24日遠征中の九州朝倉宮で死去。68歳。墓所は越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)(奈良県高取町)。⇒皇極天皇
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世界大百科事典 第2版
さいめいてんのう【斉明天皇】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
斉明天皇
さいめいてんのう
(594―661)
女帝。第35代とされる皇極(こうぎょく)天皇(在位642~645)が重祚(ちょうそ)して第37代とされる斉明天皇(在位655~661)と諡(おくりな)される。名は宝(たから)。和風諡号(しごう)は天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)天皇。茅渟(ちぬ)王の皇女。母は吉備(きび)姫王で、孝徳(こうとく)天皇の同母姉。初め高向(たかむこ)王(用明(ようめい)天皇の孫)との間に漢(あや)皇子を生み、その後に田村(たむら)皇子(舒明(じょめい)天皇)との間に葛城(かずらき)皇子(天智(てんじ)天皇)、間人(はしひと)皇女(孝徳天皇の皇后)、大海人(おおあま)皇子(天武(てんむ)天皇)を生んだ。舒明天皇の即位とともにその皇后にたち、天皇の死のあと即位した(皇極天皇)が、645年(大化1)6月の蘇我(そが)本宗家滅亡事件によって譲位。第36代孝徳天皇の没後、皇祖母尊として在(あ)った飛鳥(あすか)でふたたび即位し、飛鳥川原宮、ついで後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)に移った。その後も大土木事業をおこしたが、とくに石上山(いそのかみやま)に通じる大水渠(すいきょ)を、時人は狂心(たぶれこころ)の渠(みぞ)といったという。斉明女帝の政治は、皇太子中大兄(なかのおおえ)の輔(たす)けを受けて進められたが、有間(ありま)皇子の謀殺事件、東北や粛慎(みしはせ)の蝦夷(えみし)征討をはじめ国内政局は安定せず、国際的には朝鮮関係のうち、とくに対新羅(しらぎ)関係が緊迫した。そして、唐・新羅連合の圧力に苦しむ百済(くだら)の救援要請を受け、660年(斉明天皇6)から百済救援軍派遣の準備を進め、翌年には自身も筑紫(つくし)に出陣し朝倉宮を本営とした。しかし、ここで病となり、7月に没した。陵墓は奈良県高市(たかいち)郡の越智崗上(おちのおかのうえ)陵。
[門脇禎二]
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精選版 日本国語大辞典
さいめい‐てんのう ‥テンワウ【斉明天皇】
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旺文社日本史事典 三訂版
斉明天皇
さいめいてんのう
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