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斉明天皇【さいめいてんのう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

斉明天皇
さいめいてんのう
[生]推古2(594).大和
[没]斉明7(661).7.24. 筑紫
第 37代の天皇,女帝 (在位 655~661) 。第 35代皇極天皇の重祚。第 34代舒明天皇の皇后。名は天豊財重日足姫尊 (あめのとよたからいかしひたらしひめのみこと) ,諱は宝,敏達天皇の曾孫にあたる。茅渟 (ちぬ) 王の娘,母は吉備姫王。初め高向王にとついで漢皇子を生んだが,のち舒明天皇の皇后となり,中大兄 (のち天智天皇) ,大海人 (のち天武天皇) 両皇子を生んだ。舒明天皇の没後,蘇我氏が古人皇子の即位を企てたが,反蘇我派が台頭して皇極1 (642) 年1月皇極天皇の即位が実現した。最初大和小墾田 (おはりだ) 宮を皇居としたが,翌2年4月大和飛鳥板蓋 (あすかいたぶき) 宮に移った。当時,蘇我入鹿の権力が強く,山背大兄王を斑鳩宮に攻めて自殺させるなど横暴が続いたが,同4年6月中大兄皇子らが蘇我氏を滅ぼすと,天皇は皇位を弟軽皇子 (孝徳天皇) に譲った。孝徳天皇の没後,重祚して斉明天皇となる。女帝は都を飛鳥に復したが,その冬,板蓋宮が炎上したため飛鳥川原宮に遷御し,翌年飛鳥後岡本宮に移った。また,対外問題が困難となったため,斉明4 (658) 年,阿倍比羅夫をつかわして蝦夷を2回,粛慎 (みしはせ) を2回討伐したといわれる。一方,唐,新羅連合軍に攻められた百済の求めに応じ,同7年,百済救援軍を送り,天皇みずから筑紫朝倉に向ったが,救援軍進発の直前,朝倉橘広庭宮崩御。陵墓は奈良県高市郡高取町の越智崗上陵。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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朝日新聞掲載「キーワード」

斉明天皇
舒明天皇の皇后で、中大兄・大海人両皇子(天智・天武両天皇)の母。642年に皇極天皇として即位し、大化改新で退位。655年に再び即位して斉明天皇に。宮殿饗宴(きょうえん)施設の建設など飛鳥で相次いで大土木工事を敢行した。661年に遠征先の九州で死去。「小市岡上陵(おちのおかのうえのみささぎ)」に娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)と合葬されたとされる。
(2013-05-25 朝日新聞 朝刊 1社会)

出典:朝日新聞掲載「キーワード」

デジタル大辞泉

さいめい‐てんのう〔‐テンワウ〕【斉明天皇】
[594~661]第37代天皇。女帝。在位655~661。皇極天皇重祚(ちょうそ)大化の改新後、蝦夷(えぞ)征討軍を派遣。百済(くだら)救援のため自ら九州に赴き、その地で病没

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

斉明天皇 さいめいてんのう
594-661 飛鳥(あすか)時代,第37代天皇。在位655-661。
孝徳天皇のあと,皇極(こうぎょく)天皇が重祚(ちょうそ)。中大兄(なかのおおえの)皇子(のち天智天皇)が皇太子として国政にあたる。阿倍比羅夫に蝦夷(えみし)や粛慎(みしはせ)を討たせ,朝鮮半島に百済(くだら)救援軍を派遣する(663年白村江の戦いで敗れる)。斉明天皇7年7月24日遠征中の九州朝倉宮で死去。68歳。墓所は越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)(奈良県高取町)。⇒皇極天皇

出典:講談社
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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

さいめいてんのう【斉明天皇】

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

斉明天皇
さいめいてんのう
(594―661)

女帝。第35代とされる皇極(こうぎょく)天皇(在位642~645)が重祚(ちょうそ)して第37代とされる斉明天皇(在位655~661)と諡(おくりな)される。名は宝(たから)。和風諡号(しごう)は天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)天皇。茅渟(ちぬ)王の皇女。母は吉備(きび)姫王で、孝徳(こうとく)天皇の同母姉。初め高向(たかむこ)王(用明(ようめい)天皇の孫)との間に漢(あや)皇子を生み、その後に田村(たむら)皇子(舒明(じょめい)天皇)との間に葛城(かずらき)皇子(天智(てんじ)天皇)、間人(はしひと)皇女(孝徳天皇の皇后)、大海人(おおあま)皇子(天武(てんむ)天皇)を生んだ。舒明天皇の即位とともにその皇后にたち、天皇の死のあと即位した(皇極天皇)が、645年(大化1)6月の蘇我(そが)本宗家滅亡事件によって譲位。第36代孝徳天皇の没後、皇祖母尊として在(あ)った飛鳥(あすか)でふたたび即位し、飛鳥川原宮、ついで後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)に移った。その後も大土木事業をおこしたが、とくに石上山(いそのかみやま)に通じる大水渠(すいきょ)を、時人は狂心(たぶれこころ)の渠(みぞ)といったという。斉明女帝の政治は、皇太子中大兄(なかのおおえ)の輔(たす)けを受けて進められたが、有間(ありま)皇子の謀殺事件、東北や粛慎(みしはせ)の蝦夷(えみし)征討をはじめ国内政局は安定せず、国際的には朝鮮関係のうち、とくに対新羅(しらぎ)関係が緊迫した。そして、唐・新羅連合の圧力に苦しむ百済(くだら)の救援要請を受け、660年(斉明天皇6)から百済救援軍派遣の準備を進め、翌年には自身も筑紫(つくし)に出陣し朝倉宮を本営とした。しかし、ここで病となり、7月に没した。陵墓は奈良県高市(たかいち)郡の越智崗上(おちのおかのうえ)陵。

[門脇禎二]

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精選版 日本国語大辞典

さいめい‐てんのう ‥テンワウ【斉明天皇】
第三七代の天皇。皇極天皇の重祚(ちょうそ)。舒明天皇の皇后。孝徳天皇の死後、飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)で即位。翌年後飛鳥岡本宮に遷都。在位七年。推古天皇二~斉明七年(五九四‐六六一

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旺文社日本史事典 三訂版

斉明天皇
さいめいてんのう

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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