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斑鳩宮【いかるがのみや】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

斑鳩宮
いかるがのみや
聖徳太子宮殿。『日本書紀』には,推9 (601) 年に着工,同 13年,ここに移住されたとある。この地はおそらく妃膳氏 (かしわうじ) の本居であったのであろう。現在の法隆寺東院のあたりといわれ,飛鳥文化の中心地であったと思われる。太子は同 30年,ここで没した。太子没後も,その子山背大兄王 (やましろのおおえのおう) が引続き住んだが,皇極2 (643) 年,山背大兄王ら一族は蘇我入鹿に襲われて,このに隣接して建立されていた法隆寺で自殺し,宮殿は焼失したといわれている。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル大辞泉

いかるが‐の‐みや【斑鳩宮】
推古天皇9年(601)に、聖徳太子が造営した宮殿。奈良県生駒郡斑鳩町にある法隆寺の東院がそのといわれる。

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世界大百科事典 第2版

いかるがのみや【斑鳩宮】

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日本大百科全書(ニッポニカ)

斑鳩宮
いかるがのみや

聖徳太子が601年(推古天皇9)斑鳩(奈良県生駒(いこま)郡斑鳩町)に営んだ宮室。643年(皇極天皇2)蘇我入鹿(そがのいるか)の兵によって焼き払われ、いったん逃れた太子の長子山背大兄王(やましろのおおえのおう)も一族とともに法隆寺で自殺した。『法隆寺東院縁起』によれば、739年(天平11)行信僧都(ぎょうしんそうず)の奏上によって宮跡に東院伽藍(がらん)がつくられた。1939年(昭和14)東院の修理工事に際してその地下から発見された一群の掘立て柱建物は、焼け瓦(がわら)、焼け壁土、灰などを伴っていて、斑鳩宮の一部であると推定されている。

[中尾芳治]

『浅野清著『古寺解体』(1969・学生社)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

いかるが‐の‐みや【斑鳩宮】
推古天皇九年(六〇一)に聖徳太子の造営した宮殿。法隆寺の東院遺跡の下層がその跡といわれる。

出典:精選版 日本国語大辞典
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旺文社日本史事典 三訂版

斑鳩宮
いかるがのみや
飛鳥時代,聖徳太子の造営した太子一族の宮
斑鳩は地名法隆寺東院の地にあたる。太子死後,643年山背大兄王 (やましろのおおえのおう) が蘇我入鹿 (いるか) らに襲撃された際,宮は焼失した。739年太子一族の冥福を祈るため,僧行信が宮址に伽藍 (がらん) を建立。これが夢殿を中心とする法隆寺東院である。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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