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新井白石【あらい はくせき】

美術人名辞典

新井白石
江戸前・中期儒者政治家。江戸生。名は君美、通称勘解由木下順庵に入り学んだ。六代将軍家宣・七代将軍家継の時には幕政を補佐した。著書も多く、近世屈指の大学者と目される。自伝に『折たく柴の記』がある。享保10年(1725)歿、69才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

あらい‐はくせき〔あらゐ‐〕【新井白石】
[1657~1725]江戸中期の儒学者・政家。名は君美(きんみ)。木下順庵高弟。6代将軍徳川家宣(いえのぶ)に仕えて幕政に参与し、朝鮮通信使の待遇簡素化、貨幣改鋳などに尽力に「藩翰譜」「読史余論」「西洋紀聞」「古史通」「折たく柴の記」など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

新井白石 あらい-はくせき
1657-1725 江戸時代前期-中期の儒者。
明暦3年2月10日生まれ。新井正済(まさなり)の長男。師木下順庵の推挙で,甲斐(かい)(山梨県)府中藩主徳川綱豊の侍講となる。宝永6年綱豊が6代将軍家宣(いえのぶ)となると,間部詮房(まなべ-あきふさ)とともに将軍を補佐し,通貨改良,貿易制限,司法改革などをすすめて幕政の改善につとめた。徳川吉宗が8代将軍になると,政治上の地位をうしない,晩年は著述に専念。享保(きょうほう)10年5月19日死去。69歳。江戸出身。名は君美(きんみ)。字(あざな)は在中。通称は勘解由。別号に紫陽など。著作に「折たく柴の記」「西洋紀聞」,編著に「藩翰譜(はんかんぷ)」など。
格言など】才あるものは徳あらず,徳あるものは才あらず,真材まことに得がたし(「折たく」)

出典:講談社
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江戸・東京人物辞典

新井白石
1657〜1725(明暦3年〜享保10年)【学者・政治家】「折りたく柴の記」を著わし、政治・言語・歴史にマルチな才能を発揮した学者政治家。 名は君美、白石は号。木下順庵の推挙によって甲府藩主徳川綱豊(のち家宣)の侍講となり、家宣が六代将軍になると幕政に参画、七代家継を補佐した。財政難の幕府が起こした経済インフレを是正するための貨幣改鋳や、長崎貿易制限などの正徳の治を断行。吉宗の将軍就任にともない失脚の後、自伝『折たく柴の記』をはじめ、『読史余論』や『西洋紀聞』など多数の著書を著わし、朱子学を基本として、東西歴史学、言語学に多彩な業績を残した。

出典:財団法人まちみらい千代田
監修:江戸東京博物館 都市歴史研究室長 北原 進
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世界大百科事典 第2版

あらいはくせき【新井白石】
1657‐1725(明暦3‐享保10)
江戸中期の儒学者,政治家。白石は号。名は君美(きんみ)。通称は与五郎,伝蔵,勘解由。字は在中,済美。ほかに紫陽,錦屛山人,天爵堂など。新井家はもと常陸国下妻城主多賀谷氏に仕えたが,関ヶ原の戦の後,主家とともに所領を失う。父正済(まさなり)は江戸へ出奔し,当時流行のかぶき者のような生活を送った。やがて上総国久留里土屋利直に仕え,信任を得て目付を務めたが,お家騒動にまきこまれ,1677年(延宝5)父子ともに土屋家を追い出され,他家への奉公も禁ぜられた。

出典:株式会社平凡社
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

新井白石
あらいはくせき
[生]明暦3(1657).2.10. 江戸
[没]享保10(1725).5.19. 江戸
江戸時代中期の学者,政治家。白石は号,名は君美。木下順庵に朱子学を学び,甲府侯徳川綱豊に仕えた。綱豊が6代将軍家宣 (いえのぶ) になるとともに幕政に参加,いわゆる「正徳の治」を行なった。政治上の事績としては「武家諸法度」の改訂,貨幣の改鋳,長崎貿易の制限,儀式典礼の整備などがあげられる。吉宗が8代将軍になるとともに政界を退き,以後は学問に専念。学者としてもすぐれ,合理性と実証を重んじ,歴史学,地理学,国語学,兵学など多方面に才能を発揮した。漢詩人としても高く評価され,『藩翰譜 (はんかんぷ) 』 (1701) ,『折たく柴の記』 (16起筆) などすぐれた著書を残している。ほかに,語源を研究した『東雅』 (19) ,綴字法について研究した『東音譜』,文字を研究した『同文通考』,外国の事情について記した『采覧 (さいらん) 異言』 (13) ,『西洋紀聞』 (15) ,日本歴史について論じた『読史余論』 (12) ,『古史通』 (16) などの著書があり,現在でもそれぞれ高く評価されている。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

新井白石
あらいはくせき
(1657―1725)

江戸中期の学者、詩人、政治家。名は君美(きんみ)、通称勘解由(かげゆ)、白石は号。明暦(めいれき)3年2月10日江戸に生まれる。父正済(まさなり)(1597―1678)は久留里(くるり)(千葉県君津(きみつ)市)2万1000石の譜代(ふだい)大名土屋利直(つちやとしなお)(1607―1675)の家臣で目付の職にあったが、白石もこれに仕えて利直の寵愛(ちょうあい)を得た。1677年(延宝5)21歳のとき土屋家の内争に連座して追放禁錮(きんこ)の処分を受けたが、1679年土屋家の改易により禁錮が解け、1682年(天和2)26歳に至り大老堀田正俊(ほったまさとし)へ出仕した。ところが1684年(貞享1)堀田正俊が刺殺されたため、6年後の1691年(元禄4)には堀田家を辞去し、江戸城東に塾を開いて子弟の教育にあたった。1693年、師木下順庵(きのしたじゅんあん)の推薦により甲府綱豊(こうふつなとよ)へ出仕し、侍講として儒教経典および歴史の講義を担当した。この時期の歴史編纂(へんさん)物が有名な『藩翰譜(はんかんぷ)』である。やがて1704年(宝永1)甲府綱豊が5代将軍綱吉(つなよし)の世継ぎとなり、家宣(いえのぶ)と改名して西の丸に入るや、白石も召されて西の丸寄合(よりあい)となった。いままで同様、経書、史書の講義を担当したが、のち家宣の求めにより政治上の意見書をも提出するようになり、1709年(宝永6)綱吉の死により家宣が将軍となってからは、幕府政治に深く参加することとなった。身分についていうと、この年500石の領地を与えられて旗本の列に加えられ、のち1711年(正徳1)には従(じゅ)五位下・筑後守(ちくごのかみ)に叙任されるとともに、加増されて1000石の領主となる。幕政への参加のなかでも重要な意味をもつのは、金銀貨の改良、日朝外交の修正(将軍書翰(しょかん)様式や朝鮮使節応対などの変更)、海舶互市新例(かいはくごししんれい)(外国貿易制限)の実施などである。そのほか皇子皇女の出家廃止の建議、潜入宣教師シドッチの処分案上呈(シドッチ取調べの結果生まれたのが『采覧異言(さいらんいげん)』『西洋紀聞(せいようきぶん)』)、宝永武家諸法度(ほうえいぶけしょはっと)の草案作成などがあり、大小のむずかしい裁判にも参加して数々の名判決を出させてもいる。1712年(正徳2)10月家宣が没したため、二大事業ともいうべき金銀貨改良、外国貿易制限はともに次の7代将軍家継(いえつぐ)の代まで持ち越されるが、これらは8代将軍吉宗(よしむね)の時代にも継続された政策として史的意義が深い。この6、7両代にわたる善政がいわゆる「正徳(しょうとく)の治」である。

 白石は系統をいえば朱子学派に属する儒学者であるが、哲学、倫理学よりは歴史学を得意としたのであり、その業績には『藩翰譜』のほか、将軍への進講録『読史余論(とくしよろん)』、古代史としての『古史通(こしつう)』『古史通或問(わくもん)』があり、自叙伝『折たく柴の記』も当時の現代史としての内容を備えている。上記のほか、最晩年に心血を注いで完成した作品に『史疑(しぎ)』があるが、これはいまは伝わらず、わずかに『白石遺文(いぶん)』中の古代史関係論文がそのおもかげを伝えるのみである。なお、学者白石としての業績は哲学、倫理学、史学のほか、地理学、言語学(とくに国語学)、文学(詩)、民俗学、考古学、宗教学、武学(兵法武器)、植物学(本草学)など広範囲にわたっており、国語学の『東雅(とうが)』は国語辞典の先駆として、国学者賀茂真淵(かもまぶち)や本居宣長(もとおりのりなが)に大いに利用された。文学の『白石詩草』は近世漢詩集の代表として、北海道・千島およびアイヌ研究書の『蝦夷志(えぞし)』、沖縄についての最初の体系的解説書の『南島志(なんとうし)』は民俗学上の傑作として、それぞれ高く評価されている。『采覧異言』『西洋紀聞』の史的役割の大きいことは改めていうまでもない。この学問の領域の広い点では、ボルテールやディドロ、ルソーらフランス18世紀の百科全書派(アンシクロペディスト)に比肩するとされる。

 白石は近世後期、18世紀ごろからは荻生徂徠(おぎゅうそらい)にかわって第一級の学者として評価されるが、在世当時およびそれに近い時期においてはむしろ詩人として、日本最高の詩人として尊敬されていたのである。前記『白石詩草』は朝鮮、琉球(りゅうきゅう)、中国清(しん)朝にも伝わって絶賛を博したし、国内でも荻生徂徠が一目置いたほか、服部南郭(はっとりなんかく)や頼山陽(らいさんよう)によって仰ぎ見られたのである。近代になると、その洋学と合理主義史学とによって学界でとくに尊重され、相次いで著書、全集の刊行が行われるが、その代表著は翻訳されて欧米でも広く読まれている。享保(きょうほう)10年5月19日没、浅草報恩寺に葬る(墓は現在、中野区高徳寺にある)。

[宮崎道生 2016年4月18日]

『栗田元次著『新井白石の文治政治』(1952・石崎書店)』『古川哲史著『新井白石』(1953・弘文堂)』『宮崎道生著『新井白石』(1957・至文堂)』『宮崎道生著『新井白石の人物と政治』(1977・吉川弘文館)』『宮崎道生著『新井白石の研究』増訂版(1984・吉川弘文館)』

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367日誕生日大事典

新井白石 (あらいはくせき)
生年月日:1657年2月10日
江戸時代前期;中期の学者;政治家
1725年

出典:日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」
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精選版 日本国語大辞典

あらい‐はくせき【新井白石】
江戸中期の儒者、政治家。名は君美(きんみ)。字は在中、済美。通称勘解由。木下順庵の高弟。徳川家宣、家継に仕え、側用人間部詮房とともに幕政を補佐。武家諸法度の改正、貨幣改鋳、朝鮮通信使礼遇の改革などに尽力。その学問は日本古代や近世史、地理などの方面で実証を重んずるものであり、イタリア人宣教師シドッチから西洋の知識をも得た。詩は盛唐詩に学んで、その典型の再現に成功している。「東雅」等に言語の歴史的変遷を論じてもいる。著「藩翰譜」「読史余論」「古史通」「西洋紀聞」「采覧異言」「折たく柴の記」「同文通考」など。明暦三~享保一〇年(一六五七‐一七二五

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旺文社日本史事典 三訂版

新井白石
あらいはくせき
1657〜1725
江戸中期の政治家・朱子学者
木下順庵に学び,甲府藩主の徳川綱豊の儒臣となった。1709年綱豊が6代将軍(家宣)になると,幕政に参画し,儒教主義による文治政治を行った。儀式典礼の整備,貨幣改鋳,海舶互市新例などを実施し,正徳の治といわれた。'16年吉宗が将軍になると退けられ,晩年は著述に専念した。主著に『藩翰譜 (はんかんふ) 』『読史余論』『古史通』『折たく柴の記』『西洋紀聞』『采覧異言 (さいらんいげん) 』など。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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