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日奥【にちおう】

美術人名辞典

日奥
安土桃山・江戸前期の日蓮宗不受不施派。京都生。京都生。字は教英、号を安国院・仏性院。妙覚寺日典の法を嗣ぎ、同十九世となる。豊臣秀吉主催の千僧供養会への出仕を拒否し、本満寺の日重らと対立。また徳川家康による大坂城での供養会への出仕も拒否したが、身延山の日乾らと対論し敗北したため、歿後再び流罪判決を受けた。に『宗義制法論』等。寛永7年(1630)歿、66才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

にちおう〔ニチアウ〕【日奥】
[1565~1630]安土桃山・江戸初期の日蓮宗の僧。京都の人。不受不施派の祖。豊臣秀吉千僧供養に応じず、のち徳川家康によって対馬に配流(はいる)。許されてのち妙覚寺に住した。

出典:小学館
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

日奥 にちおう
1565-1630 織豊-江戸時代前期の僧。
永禄(えいろく)8年6月8日生まれ。日蓮宗不受不施派の祖。京都妙覚寺の日典(にちでん)に師事し,文禄(ぶんろく)元年同寺19世をつぐ。豊臣秀吉の方広寺大仏殿千僧供養会(せんそうくようえ)への出仕問題では,不受不施を主張して妙覚寺をさる。慶長5年徳川家康により対馬(つしま)に流罪となった。寛永7年3月10日死去。66歳。京都出身。俗姓。字(あざな)は教英。号は安国院,仏性院。著作に「守護正義論」「宗義制法論」など。

出典:講談社
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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

にちおう【日奥】
1565‐1630(永禄8‐寛永7)
日蓮宗不受不施派祖。京都町衆の子。10歳のとき,京都日蓮宗十六本山の一つ妙覚寺の住持日典のもとに入門。字は教英,はじめ安国房日甄(につせん),のち安国院また仏性院と号し,日奥と改名。日典のもとで熱心に行学に励み,師の譲りにより1592年(文禄1)妙覚寺住持になった。ときに日奥28歳,当時すでに洛陽の宗門内に不動の名声を築いていた兄弟子の教蔵日生,星陽日紹,老僧常光院日諦を越えての抜擢で,師の日典が日奥の才能器量にいかに強い期待を寄せたかがわかる。

出典:株式会社平凡社
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

日奥
にちおう
[生]永禄8(1565).京都
[没]寛永7(1630)
安土桃山時代~江戸時代初期の日蓮宗の僧。不受不施派の祖。妙覚寺日典に師事し,妙覚寺で師のを継いだが,豊臣秀吉の千僧供養会 (1595) を拒絶し,妙覚寺を去った。文禄5 (96) 年の震災に際しては秀吉に書状を送った。また徳川家康の怒りを買って対馬に流され,13年間その地にとどまり,のち許されて妙覚寺に戻った。その書状などは『万代亀鏡録』に収められている。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

日奥
にちおう
(1565―1630)

近世の日蓮(にちれん)宗の僧。不受不施(ふじゅふせ)派の祖。字(あざな)は教英(きょうえい)。仏性院(ぶっしょういん)、のちに安国院と号する。京都に生まれ、10歳のとき京都妙覚寺実成院日典につき出家、28歳で遺命により師法を嗣(つ)ぐ。1595年(文禄4)豊臣秀吉(とよとみひでよし)が先祖追福のため各宗の僧100人宛の出仕を招請した際、日蓮宗は他宗の施しを受けない宗規により、この招請に応ずるか否かについて会議の結果、大権力にあらがうことを避けようと一如院日重(にちじゅう)(1549―1623)らの意見で出仕に決まった。日奥ひとりこれに反対し、即日寺を出て丹波(たんば)(京都府)小泉に退き、日重らの行動を批判した。日重らは逆に公儀違背を名として訴え、家康の裁決により、日奥は敗れて対馬(つしま)に流された。このため日蓮宗門内に「受不施」「不受不施」の2派が生まれ、本来の不受不施は少数派に転落した。日奥は在島13年ののち、1612年(慶長17)に赦免され京都に還住、受・不両派は和睦(わぼく)し、1623年(元和9)不受不施も公許となった。のち両派はふたたび決裂、政治的権力も介入し、不受派を邪義として日奥を1630年(寛永7)4月2日、ふたたび対馬に配流した。しかし、日奥は同年2月10日66歳で死去したので、いわゆる死後の配流となった。

[相葉 伸 2017年9月19日]

『相葉伸著『不受不施派殉教の歴史』(1976・大蔵出版)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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367日誕生日大事典

日奥 (にちおう)
生年月日:1565年6月8日
安土桃山時代;江戸時代前期の日蓮宗の僧
1630年

出典:日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」
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精選版 日本国語大辞典

にちおう ニチアウ【日奥】
戦国期・江戸初期の僧。日蓮宗不受不施派の祖。号は仏性院・安国房。京都の人。妙覚寺日典に学ぶ。文祿四年(一五九五)豊臣秀吉が催した千僧供養会出仕をめぐって宗門内部の受施派と対立して丹波に退き、さらに慶長四年(一五九九)徳川家康の大坂城における千僧会にも出席せず、対馬に流された。一三年後、許されて帰京ののち、妙覚寺に住して不受不施の教義を宣揚した。著書に「宗義制法論」「守護正義論」など。永祿八~寛永七年(一五六五‐一六三〇

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