●日本書紀【にほんしょき】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
日本書紀
にほんしょき
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デジタル大辞泉
にほんしょき【日本書紀】
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防府市歴史用語集
日本書紀
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世界大百科事典 第2版
にほんしょき【日本書紀】
[内容]
巻一と巻二を神代の上と下,巻三を神武紀,以下各巻を1代または数代の天皇ごとにまとめ,巻二十八と巻二十九を天武紀の上(壬申紀とも)と下,巻三十を持統紀とする。文体は漢文による潤色が著しく,漢籍や仏典をほとんど直写した部分もある。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
日本書紀
にほんしょき
720年(養老4)に成立した日本初の正史。いわゆる六国史(りっこくし)の第一。神代より持統(じとう)天皇の代までを漢文で編年体に記す。
[黛 弘道]
書名
成立当初「日本紀(にほんぎ)」とよばれたが、平安初期のころから「日本書紀」とよぶようになったと推測される。「日本紀」が国史すなわち勅撰(ちょくせん)の歴史書という普通名詞でもあり、また平安初期に成立した第二の国史を「続日本紀(しょくにほんぎ)」といったので、最初の「日本紀」(正史)をとくに強調するため、わざわざ『日本書紀』といったのではあるまいか。しかし、なぜ「書」の字を加えたか、いまだ適確な説をみない。
[黛 弘道]
成立
その成立時期については『続日本紀』の養老(ようろう)4年(720)5月癸酉(きのとのとり)(21日)条に「先是(これよりさき)、一品舎人親王(いっぽんとねりしんのう)奉勅修日本紀。至是功成奏上。紀卅巻、系図一巻」とあるので明らかであるが、編纂(へんさん)開始の時期や編纂の経緯はかならずしも明らかでない。『日本書紀』の天武(てんむ)天皇10年(681)3月丙戌(ひのえのいぬ)(17日)条に「天皇……詔川嶋(かわしま)皇子・忍壁(おさかべ)皇子(十人略)、令記定帝紀(ていき)及上古諸事」とみえ、天武天皇が川嶋皇子以下に命じて歴史書編纂事業を開始したことが知られるが、一方、『古事記』序文にも天武天皇が舎人稗田阿礼(ひえだのあれ)に命じて「帝皇日継(ていおうのひつぎ)」(帝紀)と「先代旧辞(せんだいくじ)」を誦(よ)み習わせたということがみえる。記紀の2書にみえる編纂事業を同じものとみるか別と考えるかで説が分かれるし、別とすれば両者の前後関係も問題となるが、史料の不足もあっていまだ決定的な説は現れない。
平田篤胤(ひらたあつたね)は両者を同じこととするが、皇子以下の堂々たる陣容と稗田阿礼1人とでは格差がありすぎ、とうてい同一事業とは思えない。一は公的、他は私的事業の感が深い。記紀にいうところを別事とみる説では、まず紀前記後説がある。681年に命じた編纂事業が思うように進捗(しんちょく)しなかったので、天皇は改めて阿礼を相手に記定事業を始めた、というもので、これによれば681年の事業は『古事記』編纂の遠因とはいえるが、直接の起源ではない。次に記前紀後説がある。つまり阿礼を相手に始めた作業が意外に手間取ることを知った天皇は、川嶋皇子以下に命じ別途に編纂事業を開始させた。これが書紀編纂につながるもので、それとは別に阿礼の誦習(しょうしゅう)するところは『古事記』として結実したと説くものである。
なお、681年の当初から『日本書紀』編纂が意図されたとは考えがたいとして、書紀編纂の開始を『続日本紀』和銅(わどう)7年(714)2月戊戌(つちのえのいぬ)条の「詔従(じゅ)六位上紀朝臣(きのあそん)清人(きよひと)、正八位下三宅臣(みやけのおみ)藤麻呂(ふじまろ)、令撰国史」の記事に求める説もある。しかし、清人らの官位が低すぎるのが難点であり、結局目下のところ記前紀後説がもっとも穏当と思われる。
[黛 弘道]
編纂者
先述のごとく編纂総裁は天武天皇皇子舎人親王であり、成立は天武の皇孫元正(げんしょう)女帝の時代である。『日本書紀』が大友皇子の即位を無視したとは『大日本史』の主張であるが、その当否はともかく、天武側の主張が『日本書紀』に強く反映されたであろうことは否定できない。また、編纂当時の実力者藤原不比等(ふひと)の影響を重視する説も近ごろでは人気があるが、過大評価は禁物である。
[黛 弘道]
編纂資料
『古事記』が帝紀と旧辞だけを素材とし、しかも諸説のうち一つの正説を定めて筋を通そうとしたのに対し、『日本書紀』は帝紀、旧辞はいうに及ばず、その他諸家の家記、政府の記録、個人の日記手記、寺院の縁起類、朝鮮側史料、中国史書など多方面にわたる資料を活用し、文章を整えるためにも漢籍、仏典を豊富に引用している。しかも異説を強いて統一せず、一書という形で併記したり、注として付記し、ときに後人の勘校に俟(ま)つ旨を記す。これは、学問的には公平客観的な態度とされようが、国家の正史としては、体裁の面で遺憾なしとしない。『日本書紀』の研究は、成立直後から宮廷における講読という形で盛んに行われ、多くの「私記」がつくられたが、中世以降、神代紀の神道(しんとう)的研究が盛んとなり、これを神典として崇(あが)めるに至り、記紀の神秘的解釈を生じた。この傾向が近代に及び、記紀の科学的研究を阻むことにもなったが、第二次世界大戦後ようやく是正された。
[黛 弘道]
『黒板勝美編『日本書紀 前・後編』(『新訂増補国史大系』普及版・1971・吉川弘文館)』▽『坂本太郎他校注『日本書紀 上下』(『日本古典文学大系67・68』1965、1967・岩波書店)』▽『武田祐吉校注『日本書紀』全六巻(1948~1957・朝日新聞社・日本古典全書)』▽『津田左右吉著『日本古典の研究 上下』(1963・岩波書店)』
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精選版 日本国語大辞典
にほんしょき【日本書紀】
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旺文社日本史事典 三訂版
日本書紀
にほんしょき
もと『日本紀』といい,平安初期から『日本書紀』と称した。本文30巻,付録系図1巻(現存せず)。舎人 (とねり) 親王・太安万侶 (おおのやすまろ) らが編集にあたった。編纂の始期は不明であるが,720年完成。漢文編年体で,神代から持統天皇に至る天皇中心の国家の成立の歴史を記述しているが,特に神代巻にはかなりの作為や潤色がみられる。古代史研究の重要史料。
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