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日本海海戦【にほんかいかいせん】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

日本海海戦
にほんかいかいせん
1905年5月 27日,日本海軍がロシア艦隊を破った日露戦争中最大の海戦。 Z.ロジェストベンスキー中将の率いるロシアのバルチック艦隊 (戦艦8隻,装甲巡洋艦3隻,巡洋艦6隻,装甲海防艦3隻を基幹とする第2,3太平洋艦隊) が対馬海峡に向うのを,午前4時 45分仮装巡洋艦『信濃丸』が発見。ロシア艦隊は2列縦陣で進み,午後1時 55分,北西へ進んでいた東郷平八郎大将指揮下の日本連合艦隊 (戦艦4隻,装甲巡洋艦8隻,巡洋艦 12隻,装甲海防艦2隻を基幹とする) と接触した。日本艦隊は午後2時5分,針路南西から北東に逐次反転し,2時8分,6000~8000mの距離で砲戦が始った。日本艦隊は速力 15knで,9~11knのロシア艦隊に対して終始有利に戦い,夜に入るまでに旗艦『スワロフ』を含む戦艦3隻を沈めた。翌朝までに,ロシア艦隊はウラジオストクに逃れた巡洋艦1隻,駆逐艦2隻と,マニラに遁入して抑留された駆逐艦3隻のほかは,すべて撃沈され,または降伏した。ロシア側の戦死傷者は1万人,日本側は水雷艇3隻を失ったほか,戦死傷者は 1000人以下であった。この海戦の結果,ロシアは実質的に全海軍力を失い,日本の勝利は確定し,戦争終結への大きな要因となった。この海戦は,海戦史上稀有の完全勝利であり,海戦術上,造船上大きな影響を及ぼし,いわゆるド級艦時代として大艦巨砲の幕あけとなった。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル大辞泉

にほんかい‐かいせん【日本海海戦】
明治38年(1905)5月27日から翌日にかけて行われた日露戦争中最大の海戦。日本海対馬(つしま)で、東郷平八郎司令長官の率いる連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊に壊滅的打撃を与えた。

出典:小学館
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世界大百科事典 第2版

にほんかいかいせん【日本海海戦】
日露戦争中の1905年5月27~28日,日本海で,日本,ロシア両国艦隊により行われた海戦。ロシアは開戦以来の戦勢を挽回するため,ヨーロッパからバルチック艦隊を東洋に増遣することを決め,ロジェストベンスキー中将が指揮して,1904年10月,バルト海のリエパヤ軍港を出港した。途中,日本の同盟国イギリスの監視圧力妨害をうけながら,222日に及ぶ長途遠征の後,05年5月27日早暁,対馬海峡東水道入口に達したが,日本の哨艦〈信濃丸〉はこれを発見,報告した。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

日本海海戦
にほんかいかいせん

1905年(明治38)5月27日から翌日にかけて東郷平八郎(とうごうへいはちろう)の指揮する連合艦隊が、ロジェストベンスキーの率いるバルチック艦隊を対馬(つしま)沖で迎撃し、日露戦争における日本の勝利を決定した海戦。ロシアは開戦後いち早くバルチック艦隊の極東増援を決定、同艦隊は1904年10月リバウ軍港を出発した。それが旅順(りょじゅん)艦隊と合流すれば、満州の日本軍は補給路を脅かされて危機に陥るため、日本軍はバルチック艦隊が来航する以前の旅順要塞(ようさい)攻略が必要となり、多数の死傷者を出す悲惨な強襲の結果、ようやく05年1月攻略、旅順艦隊を全滅した。そのため遠征の意義は大半失われたが、戦艦8、装甲巡洋艦3を主力とする38隻15万トン余のロシア艦隊はウラジオストクに向かった。ロシア艦隊の対馬海峡通過を予想して鎮海(ちんかい)湾に待機していた戦艦4、装甲巡洋艦8を主力とする21万トン強の連合艦隊は、旗艦三笠(みかさ)の檣頭(しょうとう)に「皇国ノ興廃此(こ)ノ一戦ニアリ各員一層奮励努力セヨ」という信号旗を掲げ、ロシア艦隊の進路を圧する丁字戦法により、日没までに戦艦四隻を撃沈して勝敗を決し、翌28日には残存艦隊の主力が降伏した。ウラジオストク入港の目的を果たしたのは巡洋艦1、駆逐艦2、運送船1にすぎず、日本艦隊の損害は水雷艇三で、海戦史上もっとも完全な勝利であった。日本の勝因には速力の優位、砲撃の熟練、下瀬(しもせ)火薬の威力があげられている。日本はこの海戦を記念して5月27日を海軍記念日とした。

[藤村道生]

『軍令部編『明治三十七八年海戦史 下』(1934・内閣印刷局朝陽会)』『水野広徳著『此一戦』(1911・博文館/『明治戦争文学集』所収・1969・筑摩書房)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

にほんかい‐かいせん【日本海海戦】
明治三八年(一九〇五)の五月二七日から二八日にかけて行なわれた、日露戦争中最大の海戦。陸海ともに敗退を重ねていたロシアは、バルチック艦隊を喜望峰経由でウラジオストクに向けて回航させ、頽勢挽回を企てたが、司令長官東郷平八郎の率いる日本の連合艦隊は未然にこれを対馬沖で捕え、壊滅的打撃を与えた。日本政府はこれを機にアメリカ合衆国に停戦の調停を依頼し、同年八月のポーツマス講和会議を実現させた。

出典:精選版 日本国語大辞典
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旺文社日本史事典 三訂版

日本海海戦
にほんかいかいせん
1905年5月27〜28日,日本海で行われた日露戦争中最大の海戦
ロシアは日本海軍を制圧するためバルチック艦隊をウラジヴォストークに向けて出発させたが,東郷平八郎の率いる連合艦隊はこれを対馬沖で迎えうち撃破。この海戦をきっかけに講和が成立した。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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