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日蓮【にちれん】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

日蓮
にちれん
[生]承久4(1222).2.16. 安房
[没]弘安5(1282).10.13. 武蔵
日蓮宗の開祖。勅諡は立正大師。 16歳で出家,伝統的仏教の教理に疑問をいだき,鎌倉,京畿,比叡山などで諸教学を学んだ。その後,故郷に帰って『法華経』を通じ真の仏教を知りうるという確信に基づいて,初めて「南無妙法蓮華経」という題目を称え (1253) ,日蓮と称した。浄土教,禅などの教理を激しく批判したため,種々の迫害を受けた。また,『立正安国論』を書き北条時頼に送ったが無視された。のち鎌倉で人々に迫害され,捕われて伊豆の伊東に流され (61) ,やがて許された (63) 。その後,いわゆる小松原の法難 (64) ,竜口の法難 (71) などにあい,佐渡に流され,文永 11 (74) 年に許されて鎌倉に帰った。やがて身延山に隠棲したが,絶えず布教に努めた。弟子には六老僧など重要な人物が多い。主著はほかに『守護国家論』『観心本尊鈔』『撰時鈔』『開目鈔』。

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デジタル大辞泉

にちれん【日蓮】
[1222~1282]鎌倉時代の日蓮宗開祖安房(あわ)の人。12歳で清澄寺に入り天台宗などを学び、出家して蓮長と称した。比叡山などで修学ののち、建長5年(1253)「南無妙法蓮華経」の題目を唱え、法華経の信仰を説いた。辻説法で他宗を攻撃したため圧迫を受け、「立正安国論」の筆禍伊豆の伊東に配流。許されたのちも他宗への攻撃は激しく、佐渡に流され、赦免後、身延山に隠栖。武蔵池上で入寂。著「開目鈔」「観心本尊鈔」など。勅諡号(ちょくしごう)は立正大師

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

日蓮 にちれん
1222-1282 鎌倉時代の僧。
承久(じょうきゅう)4年2月16日生まれ。日蓮宗の開祖。安房(あわ)(千葉県)の天台宗清澄寺で出家し,是聖房蓮長と称した。建長5年4月28日清澄寺で立教開宗。このころ日蓮と改名。文応元年「立正安国論」をあらわして浄土教を非難,はげしい弾圧をうけ伊豆(いず),佐渡に流される。赦免後は甲斐(かい)身延山に隠棲(いんせい)し,弟子の育成につとめた。弘安(こうあん)5年10月13日死去。61歳。安房出身。墓所は久遠寺(山梨県身延山)。幼名は薬王丸。著作に「開目鈔」「観心本尊鈔」など。
【格言など】われ日本の柱とならん,われ日本の眼目とならん。われ日本の大船とならん(「開目鈔」)

出典:講談社
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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

デジタル大辞泉プラス

日蓮
山岡荘八の歴史小説。1952年刊行。

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世界大百科事典 第2版

にちれん【日蓮】
1222‐82(貞応1‐弘安5)
日蓮宗の開祖。鎌倉新興仏教第1段階の栄西と法然,第2段階の道元と親鸞に続き,第3段階に一遍と同時期に活躍した僧。安房国(千葉県)長狭郡に生まれた。幼名を薬王丸と伝える。天台寺院清澄寺で道善房を師として出家し,1253年(建長5)同寺で法華信仰の弘通(ぐづう)を開始,法華仏教至上の立場から浄土教を批判したため,浄土教徒に圧迫され同寺を退出,弘通の場を鎌倉に求めた。そのころ地震,疫病飢饉等災害が続出し,日蓮はこの原因を法然浄土教の流布と人々の法華信仰の棄捨によるものとし,浄土教徒への資援禁止と法華信仰への回帰を対策として,これを《立正安国論》にまとめ,60年(文応1)前執権で北条氏得宗(とくそう)の北条時頼に提示した。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

にちれん【日蓮】
1222~1282 鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。字あざなは蓮長。諡号しごうは立正大師。安房あわ小湊の人。一二歳で仏門に入り、諸宗を各地で学ぶ。「法華経」によってのみ末世の国家の平安もありうることを悟り、1253年に日蓮宗を開き、辻説法で他宗を激しく攻撃し、論破した。60年「立正安国論」を幕府に献じ国難を予言していれられず、伊豆に配流。赦免後も幕府・諸宗批判をやめなかったため竜口たつのくちで斬られかけたが、佐渡に流された。許されて、甲斐身延山に隠棲。武蔵国千束郡(東京都大田区池上)で、六老僧を定めて没した。著「開目鈔」「観心本尊鈔」など。

出典:三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)

日蓮
にちれん
(1222―1282)
鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。

生い立ち

安房(あわ)国長狭(ながさ)郡東条郷片海(かたうみ)(千葉県鴨川(かもがわ)市小湊)の地で、貞応(じょうおう)元年2月16日に生まれた。出自については、三国氏、貫名(ぬきな)氏など諸説があるが、有力漁民の子であろうというほかまったく不明である。幼年期を海浜の村で送ったのち、12歳のときにほど近い清澄山(きよすみやま)の清澄寺(せいちょうじ)に入り、住僧の道善房(どうぜんぼう)(?―1276)を師として修学に励む。当時の清澄寺は、天台宗の法華経(ほけきょう)信仰に、浄土教・密教をあわせた有力な山岳寺院で、僧侶(そうりょ)の往来も激しかった。やがて出家して是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)と称し、本尊の虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)に智者(ちしゃ)としての大成を祈願したが、生死の問題を解決するわけにはいかなかった。鎌倉幕府の体制が質的な面において問い直され始めたという社会の風潮が、このような意識を抱かせ始めたのであろう。やがてこの疑いを晴らすことを目的に、清澄を去り比叡山(ひえいざん)遊学の旅に上る。比叡山を拠点としながら、京都・奈良の諸大寺を訪れ、さらに高野山(こうやさん)、四天王寺に足を伸ばして修学したが、その目に映ったのは浄土教の隆盛である。この現象を天台宗の正統である法華経信仰の衰退ととらえ、これを復興することによって現世の平安を獲得することを誓う。[中尾 尭]

『法華経』の伝道

ふたたび清澄寺に帰り、南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)と初めて唱え、『法華経』の伝道を宣言した。1253年(建長5)4月28日のことで、この日を立教開宗の日として記念している。蓮長を日蓮と改めたのも、このころである。ところが、日蓮の主張は『法華経』の信仰を主張する反面、浄土教の信仰を強く拒否するものであったから、日蓮はついに清澄山を退出することとなる。しばらく房総(千葉県)の天台宗勢力を頼りながら伝道を続け、下総(しもうさ)国の守護千葉介頼胤(よりたね)(1239―1275)に連なる武士たちの間に信者を獲得した。富木常忍(ときじょうにん)(1216―1299)、大田乗明(おおたじょうみょう)(1222―1283)、曽谷教信(そやきょうしん)(1224―1291)らで、終生その信仰を守った。この後、遅くとも1257年(正嘉1)の初めころまでに、日蓮は鎌倉へ進出して松葉谷(まつばがやつ)に草庵(そうあん)を構えて、伝道活動を展開した。ところがその年8月に起こった大地震は激しく、鎌倉は壊滅状態に陥る。そのうえ洪水、干魃(かんばつ)、疫病、飢饉(ききん)などの天災が続出した。日蓮はこのように不安な状態から脱出する方法を、宗教者として模索し始める。浄土教の信仰を捨てて法華経の信仰になりきることによってのみ、現実の世界は仏国土になることができるというのが、その結論である。いま法然(ほうねん)(源空(げんくう))の説く浄土教を禁圧して『法華経』に帰依(きえ)しないならば、国内に内乱が起こり、他国から侵略を被るであろうと、為政者の宗教責任を問う『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』を著した。日蓮はこの書を、前執権(しっけん)北条時頼(ほうじょうときより)に呈上し、『法華経』の信仰に基づく善政を施すことによって災難の克服を進言する。1260年(文応1)7月16日のことである。[中尾 尭]

法難

日蓮のこのような主張に反発した浄土教の信者たちは、1260年8月27日の夜に大挙して松葉谷の草庵を焼打ちした(松葉谷法難)。危うく難を逃れた日蓮は、下総に移って事が静まるのを待ち、翌1261年ふたたび鎌倉に進出する。ところが5月12日にまたもや捕らえられて、伊豆国伊東(静岡県伊東市)に流された(伊豆法難)。ここでは伊東八郎左衛門のもとに預けられ、その病を祈って快癒させ、海中から得た立像の釈尊(しゃくそん)を贈られ、これを生涯の随身仏とした。1263年(弘長3)に赦免されて鎌倉に帰って伝道活動を再開する。その翌年の1264年(文永1)11月11日、故郷を訪れていた日蓮を、かねてから浄土教の法敵とねらっていた東条景信(とうじょうかげのぶ)(生没年不詳)が、東条郷松原大路に待ち伏せして襲撃した。激闘のすえに幾人かの死傷者を出し、日蓮自身も眉間(みけん)に刀傷を負った(小松原法難)。ふたたび鎌倉に赴いて伝道していたところ、1268年閏(うるう)正月に蒙古(もうこ)の牒状(ちょうじょう)が幕府へ届いた。それは元(げん)朝への臣従を求めたもので、これを拒否するならば武力による侵攻を被ることは覚悟しなくてはならない。日蓮はこれをもって『立正安国論』の予言が的中したと主張し、『法華経』の信仰を盛んに唱えた。やがて蒙古との関係がさらに悪化すると、幕府は侵攻軍との徹底的な防衛戦を決意し、全国的な臨戦体制を敷いた。このような状況のなかで、予言の的中と法華経信仰を叫ぶ日蓮は、1271年9月12日に捕らえられ、片瀬の竜口(たつのくち)刑場に引かれて斬首(ざんしゅ)されようとした。ところが奇跡が起こって果たされず、佐渡流罪の途に上る(竜口法難)。鎌倉にいた弟子たちも多く捕らえられ、信者のなかにも信仰を捨てる者が続出して、教団は重大な危機にみまわれる。日蓮は相模(さがみ)国依智(えち)(神奈川県厚木市)の本間氏の屋敷にとどめられたのち冬の信濃(しなの)路を越えて寺泊(てらどまり)に出、佐渡に渡った。国中(くになか)平野の一隅にある塚原の三昧(さんまい)堂に置かれた日蓮は、雪中の寒さと飢えに死を覚悟しながら『開目抄』を著す。やがて一谷(いちのさわ)に移され、『観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)』を著し、本尊と崇(あが)めるべき大曼荼羅(だいまんだら)本尊を書き示した。1274年には異例ともいうべき流罪の赦免を得て鎌倉の地に帰るが、その主張がいれられないとみて、甲斐(かい)国身延(みのぶ)山(山梨県身延町)へ隠栖(いんせい)し、弟子や信者の信仰指導にあたる。各地に住む信者たちは、供養の品とともに信仰の指導を求めてくる。日蓮は、書状や曼荼羅本尊を弟子たちに届けさせて、その要請にこたえるのが常であった。故人の遺骨を抱いてはるばる身延を訪れ、山中に納骨する者も現れた。領主から信者に対する弾圧も激しくなったので、その対応も深刻に考えなくてはならない。山中に隠栖生活を送る日蓮は、しばしば下痢の病に伏したが、けっして心の休まる暇はなかった。なかでも1279年(弘安2)9月に起こった熱原(あつはら)法難は、駿河(するが)国富士郡熱原(静岡県富士市)の百姓たちが殉教したほどの深刻な事件であった。[中尾 尭]

身延山下山・病死

一方、日蓮が予言した蒙古の襲来は、1274年10月に現実のものとなったが、大暴風雨によって船が覆ったので、かろうじて事なきを得た。ところが1281年の夏にふたたび博多(はかた)に来寇(らいこう)したが、武士の果敢な戦いと台風の襲来によって、難を逃れることができた。その年の11月には、領主の波木井実長(はきいさねなが)(1222―1297)が10間四面の大堂をはじめとする諸堂を建てて寄進した。身延山久遠寺(くおんじ)の開創である。ところが翌年の1282年になると日蓮の病は進み、秋には立つのも困難なほどになった。このため、故郷を訪ねて常陸(ひたち)(茨城県)の湯に入ろうと、身延山を出て東方に向かった。けれども9月19日、武蔵(むさし)国千束(せんぞく)郡(東京都大田区池上(いけがみ))にある池上宗仲(むねなか)(生没年不詳)の屋敷に至ると、ふたたび立つことができなくなった。死の近いことを知った日蓮は、弟子や信者に『立正安国論』を講じ、教団の中心となる弟子6人(六老僧。日昭(にっしょう)、日朗(にちろう)、日興(にっこう)、日向(にこう)、日頂(にっちょう)、日持(にちじ))を定める。やがて10月13日辰(たつ)の刻(午前8時ころ)、波瀾(はらん)に富んだ一生を終えた。遺骸(いがい)は池上の地で火葬にし、遺骨は身延山に移されて墓塔が営まれ、弟子たちが月番でこれを守ることとなった。[中尾 尭]
『立正大学日蓮教学研究所編『日蓮聖人遺文辞典 歴史編』(1952~1959・身延山久遠寺) ▽高木豊著『日蓮――その行動と思想』(1970・評論社/増補改訂版・2002・太田出版) ▽川添昭二著『日蓮――その思想・行動と蒙古襲来』(1971・清水書院) ▽田村芳朗著『日蓮――殉教の如来使』(1975・日本放送出版協会/再刊・2015・吉川弘文館)』

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367日誕生日大事典

日蓮 (にちれん)
生年月日:1222年2月16日
鎌倉時代後期の僧
1282年没

出典:日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」
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精選版 日本国語大辞典

にちれん【日蓮】
鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。改名前は是聖房蓮長。幼名は善日、勅号は立正大師。安房国(千葉県)の人。荘官クラスの家に生まれたらしい。一二歳で小湊の清澄寺に入り、一八歳で出家。比叡山ほか各地で修行、ついに法華経に究極を見いだした。建長五年(一二五三)清澄寺で布教を開始、辻説法などを行なう。文応元年(一二六〇)「立正安国論」を著わし、幕府の忌諱にふれ伊豆へ流罪。三年後許されたが、ますます幕府や諸宗を攻撃し、鎌倉龍の口で斬られかけた。佐渡流罪後文永一一年(一二七四)身延に隠れ、久遠寺を開いた。のち、病気のため下山、武蔵国(東京)池上で没。著に「観心本尊抄」「開目抄」「報恩抄」など。貞応元~弘安五年(一二二二‐八二

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