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日野勝光【ひの かつみつ】

美術人名辞典

日野勝光
贈内府重政公男、姓藤原、重政の嗣、義資の二男。左大臣従一位。博覧強記和漢学に通じ和歌をよくす。文明8年(1476)歿、48才。

出典:(株)思文閣

デジタル版 日本人名大辞典+Plus

日野勝光 ひの-かつみつ
1429-1476 室町時代の公卿(くぎょう)。
永享元年生まれ。父日野政光の出家後に祖父日野義資(よしすけ)が横死し,若年で祖父の家督をつぐ。妹の日野富子将軍足利義政の妻になったため権勢をふるい,富子の子義尚(よしひさ)を後嗣にたてようと画策して応仁の乱のきっかけをつくる。文明8年左大臣。同年6月15日死去。48歳。毒殺説が流布した。従一位。法号は唯称院。

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

ひのかつみつ【日野勝光】
1429‐76(永享1‐文明8)
室町中期の公卿。父政光(重政)の早世により祖父義資の養子となる。母従三位北小路苗子。8代将軍足利義政の室日野富子の兄。応仁・文明の乱前後の幕政に関与した。1455年(康正1)権大納言に昇進,65年(寛正6)従一位に叙され,61年三条実雅の所領であった能登国若山荘などを与えられる。応仁の乱には東軍陣営にあり,義政が細川勝元に錦の御旗を与えるのを阻止しようとした。73年(文明5)義尚が将軍に就任すると,新将軍の代官として幕政を執行,幕府奉行人は勝光の邸に伺候し裁判,行政事務を行ったという。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

日野勝光
ひのかつみつ
[生]永享1(1429)
[没]文明8(1476).6.15. 京都
室町時代中期の公卿。贈内大臣重政の子。宝徳2 (1450) 年権中納言。将軍家に取入って,妹富子を足利義政の室に入れ権勢をふるった。応仁1 (67) 年内大臣,文明8 (76) 年には左大臣となり,専権をふるい押大臣と称された。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

日野勝光
ひのかつみつ
(1429―1476)

室町中期の公卿(くぎょう)。日野重政(しげまさ)(政光(まさみつ)改め)の子。1434年(永享6)祖父義資(よしすけ)の没後その家督を継ぐ。55年(康正1)権大納言(ごんだいなごん)となり、この年妹富子(とみこ)が将軍足利義政(あしかがよしまさ)の室となったのを機に権勢を強め、65年(寛正6)に従(じゅ)一位に上り、翌66年(文正1)には院の執権となる。将軍義政を抑えて幕政に介入し、富子の子義尚(よしひさ)を将軍家の家督にたてようと計り、伊勢貞親(いせさだちか)とともに、すでに後嗣(こうし)と定められていた義視(よしみ)を排斥し、応仁(おうにん)の乱(1467~77)を招くきっかけをつくった。67年(応仁1)には、同家で前例のない内大臣となり「押大臣」とよばれて専権を振るい、ことに73年(文明5)義尚が将軍になると、新将軍代として幕政を担当した。76年には左大臣となり官位を極めたが、同年6月15日、48歳で没した。奈良興福寺大乗院の尋尊(じんそん)は、これを「希有(けう)の神罰なり」と記している。唯称院と号す。

[酒井紀美]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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