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昭憲皇太后【しょうけんこうたいごう】

美術人名辞典

昭憲皇太后
明治天皇の皇后。京都生。左大臣一条忠香三女。幼名は勝子。富貴君のち寿栄君と称し、立后にあたり美子と改名。女子教育の振興、社会事業の発展、国産の奨励等に尽力した。和歌書道に秀でた。大正3年(1914)崩御、65才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

しょうけん‐こうたいごう〔セウケンクワウタイゴウ〕【昭憲皇太后】
[1850~1914]明治天皇皇后。一条忠香の娘。名は美子(はるこ)。産業奨励・女子教育に尽力。和歌に堪能歌集「昭憲皇太后御集」。

出典:小学館
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

昭憲皇太后 しょうけんこうたいごう
1849-1914 明治天皇の皇后。
嘉永(かえい)2年4月17日生まれ。一条忠香(ただか)の3女。明治元年皇后,45年皇太后。博愛社(のちの日本赤十字社)などの社会事業や女子師範,華族女学校などの女子教育の発展につとめた。和歌や書をよくした。大正3年4月11日死去。66歳。墓所は伏見桃山東陵(京都市伏見区桃山町)。名は美子(はるこ)。
格言など】みがかずば玉も鏡も何かせむまなびの道もかくこそありけれ(明治8年女子師範開校式での歌)

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

しょうけんこうたいごう【昭憲皇太后】
1850‐1914(嘉永3‐大正3)
明治天皇の皇后。名は美子(はるこ)。左大臣一条忠香の女で,1868年(明治1)皇后となる。文藻に秀で,和歌集に《昭憲皇太后御集》がある。華族女学校を創立し,東京慈恵医院を眷顧(けんこ)するなど,欧米の婦人の活動にならって女子教育や慈善事業の近代的発達を援助し,また万国赤十字連合に基金を贈り,国際的な赤十字事業も援助した。【武部 敏夫】

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

昭憲皇太后
しょうけんこうたいごう
(1849―1914)

明治天皇の皇后。嘉永(かえい)2年4月17日、左大臣一条忠香(ただか)の三女として生まれる。初めの名は勝子。1867年(慶応3)6月女御(にょうご)となる。この年、天皇との年齢差、3歳の年長を、「世俗四つ目と称してこを忌む」として、1年遅い嘉永3年を公式の生年とした。68年12月美子(はるこ)と改名、28日入内(じゅだい)の儀を経て皇后に冊立(さくりつ)された。勧業博覧会や各種共進会、富岡製糸場などに行啓して産業を奨励し、華族女学校、東京女子師範学校などの設立援助、開成学校、学習院への行啓など教育の振興にも努めた。また博愛社の設立、日本赤十字社、慈恵病院、愛国婦人会への援助など社会事業に力を注いだ。能楽、美術、工芸の発展にも心を配り、日清(にっしん)・日露戦争には出征軍人や傷病兵に下賜品を与え、慰問使を送った。和歌や古典文学に造詣(ぞうけい)深く、とくに作歌では3万6000首にも上る歌を残し、『昭憲皇太后御歌集』はその片鱗(へんりん)を示すものである。大正3年4月11日死去。昭憲皇太后と追号された。墓地は京都伏見(ふしみ)桃山東陵。

[宇野俊一]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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20世紀日本人名事典

昭憲皇太后
ショウケンコウタイゴウ

明治期の歌人 明治天皇皇后。



生年
嘉永2年4月17日(1849年)

没年
大正3(1914)年4月11日

別名
御名=美子(ハルコ),幼名=勝子(マサコ),富貴君,壽栄君

経歴
五摂家の一つ、左大臣一条忠香の三女、母は新畑大膳種成の娘民子。幼名勝子、富貴君、寿栄君、後に美子。慶応3年女御に内定、明治元年12月入内して皇后となる。幼少より古今和歌集を読み、和歌をよくし、その数3万6千首。「昭憲皇太后御集」「現代短歌全集」(改造社)に収められている。維新の志士遺族、日清、日露戦役の傷病者を慰問、日本赤十字社などを通じて社会事業に尽され、また東京女子師範、華族女学校(女子学習院)の設立など女子教育の振興に貢献された。明治天皇死去の後は皇太后となり青山御所に移り、死後昭憲皇太后と追号された。実子はなかった。

出典:日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)
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精選版 日本国語大辞典

しょうけん‐こうたいごう セウケンクヮウタイゴウ【昭憲皇太后】
明治天皇の皇后。左大臣一条忠香(ただか)の女(むすめ)。母は新畑大膳種成の女民子。初名は勝子(まさこ)、のち美子(はるこ)。慶応三年(一八六七)女御となり、翌年皇后に冊立(さくりつ)。女子教育や社会事業の振興に尽力。和歌に秀で、歌集に「昭憲皇太后御集」がある。嘉永二~大正三年(一八四九‐一九一四

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