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景福宮【けいふくきゅう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

景福宮
けいふくきゅう
Kyǒng-bokkung
朝鮮,朝鮮王朝 (李朝) の王宮。太祖2 (1394) 年に創建。『詩経』の「君子萬年,介爾景福」の景福をとって景福宮と名づけた。高さ 20尺1寸 (約 6m) ,周囲 1813歩 (約 3300m) の石牆の中に,南側に光化門,北側に神武門,東側に建春門,西側に迎秋門を配した。勤政殿 (正殿。日本の紫宸殿にあたる) の周囲には南に勤政門をはじめ4門,その北に思政殿 (王の休息所) ,康寧殿 (王の居住所) ,交泰殿 (王后の居住所) などと,その他多数の殿堂楼閣があった。また慶会楼 (群臣の宴会所) は太宗 12 (1412) 年に思政殿の西隅に築造宣祖 25 (1592) 年の壬辰の倭乱 (→文禄・慶長の役 ) のとき全焼し,以後二百七十余年間,廃虚のままになっていたのを,大院君が高宗2 (1865) 年,景福宮再建に着手し,同7年完成。のち朝鮮総督府が正面に建築され,諸宮も多く取りこわされた。

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世界大百科事典 第2版

けいふくきゅう【景福宮】

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世界の観光地名がわかる事典

けいふくきゅう【景福宮】
韓国の首都ソウル鍾路区にある李氏朝鮮王朝の正宮。ケソン開成)から漢陽(現在のソウル)に遷都(せんと)した朝鮮王朝の始祖・太祖李成桂により1395年に築かれた。ソウル市内の5つの王宮の中で最も規模が大きく、壮麗。1592年の文禄の役(壬申倭乱)で、ソウルに迫る日本(豊臣秀吉)の軍勢に王が宮殿から避難すると、朝鮮民衆による略奪放火にあい荒廃した。その後1865年に興宣大院君が再建し、再び正宮となった(その間、正宮は昌徳宮に置かれた)。広大な敷地に数百棟の殿堂楼閣があったが、1910年の日韓併合後、朝鮮総督府によって8割以上が破却され、宮殿正面には総督府庁舎が建てられた。また、宮殿北側は大韓民国大統領官邸(青瓦台)になっている。◇「キョンボックン」とも読む。旧総督府庁舎は2006年に取り壊され、景福宮復元事業が始まっている。

出典:講談社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

景福宮
けいふくきゅう

朝鮮、李朝(りちょう)の正宮。別称を北闕(ほくけつ)ともいう。1395年ソウルに創建された。総面積は約42万平方メートル。新羅(しらぎ)、高麗(こうらい)、李氏朝鮮王朝のほかの王宮がすべて丘陵上に造営されたのに対し、この王宮は当時流行した風水地理説に基づく吉地に創建され、南に広大な平地と清流を有し、北の背後には北岳山が迫っている。1592年(文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役)に兵火にあって全焼し、王宮として不吉であるとされ、放置されていたが、1865年に至り、高宗の実父興宣大院君によって再建され、ふたたび正宮となった。しかし1895年、明成皇后閔妃(びんひ)が日本人暴徒に殺害されて以後、王宮としての運命を終えた。

[平木 實]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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