●朝鮮通信使【ちょうせんつうしんし】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
朝鮮通信使
ちょうせんつうしんし
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朝日新聞掲載「キーワード」
朝鮮通信使
(2016-11-04 朝日新聞 夕刊 1社会)
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朝鮮通信使
(2016-11-05 朝日新聞 朝刊 筑後・1地方)
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朝鮮通信使
(2017-11-02 朝日新聞 朝刊 3社会)
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デジタル大辞泉
ちょうせん‐つうしんし〔テウセン‐〕【朝鮮通信使】
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世界大百科事典 第2版
ちょうせんつうしんし【朝鮮通信使】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
朝鮮通信使
ちょうせんつうしんし
李氏(りし)朝鮮の国王が日本国王(日本の外交権者)に国書を手交するために派遣した使節。日本では朝鮮来聘使(らいへいし)ともいう。1404年(応永11)足利義満(あしかがよしみつ)が日本国王として朝鮮と対等の外交(交隣(こうりん))関係を開いてから明治維新まで、両国は基本的にその関係を維持した。それを具体化したのが両国使節の往来による国書の交換である。義満以来かなり両国使節の往来があったが、徳川将軍は直接使節を送らず、朝鮮も釜山(ふざん)以外への日本人の入国を禁じたので、近世では朝鮮使節が来日するのみとなり、国書の交換もその際にまとめて行われた。近世の朝鮮使節は1607年(慶長12)から1811年(文化8)まで12回来日した。日本側はこれらをすべて通信使と考えたが、朝鮮側は、初めの3回は徳川将軍からの国書(対馬(つしま)藩宗(そう)氏の偽作)への回答と、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役で日本に拉致(らち)された被擄人(ひりょにん)の刷還(さっかん)を目的とする回答兼刷還使を名目とした。この齟齬(そご)は柳川一件(やながわいっけん)を契機に修正され、以後9回は名実ともに通信使となった。
通信使一行は正使以下300人から500人で構成され、大坂までは海路、それ以東は陸路をとった。一行が日本国内を往来する際の交通宿泊費や饗応(きょうおう)はすべて日本側の負担であったが、通信使の来日は両国の威信をかけた外交行事でもあり、その接待は豪奢(ごうしゃ)を極め、経費は50万両とも100万両ともいわれた。近世中期以降の通信使は将軍の代替りごとに来日するのが例となっていたが、12回目は天明大飢饉(てんめいだいききん)のために延期され、行礼場所も対馬に変更されて、1811年にようやく実施された。その後はたびたび計画されながら財政難や外圧のために延期され、実現しないままに明治維新を迎えた。朝鮮側の通信使派遣には日本の国情偵察という目的もあり、来日のたびごとに詳しい観察記録が残されていて、外国人による近世日本についての貴重な記録の一つとなっている。なお1711年(正徳1)、新井白石(あらいはくせき)は、朝鮮側国書にある将軍の呼称を従来の「日本国大君(にっぽんこくたいくん)」から「日本国王殿下」に改めさせ、また使節の接遇を簡素化したが、白石失脚後はすべてもとの形態に戻された(殊号事件)。
[荒野泰典 2018年5月21日]
2017年(平成29)、日本国内12都府県と韓国に残る江戸時代の朝鮮通信使に関する外交資料が、「朝鮮通信使に関する記録」として、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の「世界の記憶」に登録された(日本・韓国の関係団体による共同申請)。
[編集部 2018年5月21日]
『宮崎道生著『新井白石の研究』増訂版(1966・吉川弘文館)』▽『中村栄孝著『日鮮関係史の研究 下』(1969・吉川弘文館)』▽『申維幹著、姜在彦訳『海游録――朝鮮通信使の日本紀行』(1974・平凡社・東洋文庫)』▽『映像文化協会編『江戸時代の朝鮮通信使』(1979・毎日新聞社)』
出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典
ちょうせん‐つうしんし テウセン‥【朝鮮通信使】
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旺文社世界史事典 三訂版
朝鮮通信使
ちょうせんつうしんし
1404年に足利義満が日本国王として外交関係を開き,日本と朝鮮は基本的に対等の外交関係を続けた。江戸時代には,だいたい徳川将軍の代替わりごとに李朝から派遣され,その回数は12回を数える。鎖国下にあった日本の社会や文化に大きな影響をおよぼした。
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旺文社日本史事典 三訂版
朝鮮通信使
ちょうせんつうしんし
来聘 (らいへい) 使ともいう。1607年が第1回で,以後1811年までに12回来日。正使のほか約400名の来日で費用は毎回100万両に達したが,幕府は将軍継嗣の儀礼と示威の立場から厚遇した。
出典:旺文社日本史事典 三訂版
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