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本多正信【ほんだまさのぶ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

本多正信
ほんだまさのぶ
[生]天文7(1538).三河
[没]元和2(1616).6.7. 江戸
江戸時代初期の大名。俊正の子。幼名は弥八郎。別名は正保,正行。通称は佐渡守。幼少から家康に近侍していたが,永禄6 (1563) 年の三河一向一揆に参加して家康のもとを離れ,天正 10 (82) 年許され,再び出仕。同 12年の小牧・長久手の戦いで功を立て,同 18年家康東入封後,相模甘縄1万石を与えられた。家康が駿府に移ると秀忠に近侍し,江戸城の経営や幕府の中枢機構に参加して,子正純とともに権勢をふるった。治世の要目を記した『本佐録』は正信の作といわれているが,真偽は不明。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル大辞泉

ほんだ‐まさのぶ【本多正信】
[1538~1616]安土桃山・江戸初期の武将三河の人。幼少より徳川家康に仕え、謀臣として活躍。のち、2代将軍秀忠側近。「本佐録」の著者といわれるが未詳

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

本多正信 ほんだ-まさのぶ
1538-1616 戦国-江戸時代前期の武将,大名。
天文(てんぶん)7年生まれ。徳川家康につかえるが,三河一向一揆(いっき)に味方して追放される。のち帰参し,家康の側近となる。関東入国後は相模(さがみ)(神奈川県)玉縄1万石をあたえられた。将軍秀忠を補佐し,幕政をになう。元和(げんな)2年6月7日死去。79歳。三河(愛知県)出身。初名は正保,正行。通称は弥八郎。佐渡守。
【格言など】堪忍は身を立つるの壁。苦労は栄華の礎(いしずえ)(「半日閑話」)

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

江戸・東京人物辞典

本多正信
1538〜1616(天文7〜元和2)【大名】家康と一心同体で、二代将軍を補佐。 織豊期〜江戸前期の大名、佐渡守。家康に仕え、長久手の戦い以来頭角を現し、関が原以降初期徳川政権を担った。秀忠が二代将軍となると、大久保正隣と政権を補佐。家康は、正信を通じて駿府にいながら、大御所として事実上幕政を支配することができた。1616年家康が没すると、あとを追うように49日後に死去した。『本佐録』を著したとされる。

出典:財団法人まちみらい千代田
監修:江戸東京博物館 都市歴史研究室長 北原 進
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世界大百科事典 第2版

ほんだまさのぶ【本多正信】
1538‐1616(天文7‐元和2)
江戸初期の大名。徳川家康の側近。創業期の江戸幕府で,のちの大老または老中に相当する位置にあった。通称を弥八郎。祖父の代からの松平氏の家臣。幼いころから4歳年下の家康に仕えたが,1563年(永禄6)三河一向一揆に参加して家康に背き,翌年国を出て加賀に住んだが帰参し,70年(元亀1)姉川の戦に参加。82年(天正10)には家康の文書を取り次いでおり,これ以前にその側近となっていたと考えられる。86年従五位下佐渡守。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

ほんだまさのぶ【本多正信】
1538~1616 江戸初期の大名。三河の人。佐渡守。一時、一向一揆に荷担して徳川家康に離反、許されて再仕ののち、江戸城の経営に参画するなど草創期の幕政に参与。家康最高の謀臣とされる。

出典:三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)

本多正信
ほんだまさのぶ
(1538―1616)
徳川家康の側近。江戸幕府創業期に、後の大老・老中に相当する役割を果たした。古くからの松平氏譜代(ふだい)の家柄の生まれ。代々通称を弥八郎(やはちろう)。1563年(永禄6)三河一向一揆(いっこういっき)に参加して家康に敵対し、翌年国を出て加賀(石川県)に逃れた。帰参の年は明らかでないが、70年(元亀1)姉川(あねがわ)の戦いで軍功をたてたという言い伝えがある。82年(天正10)には家康の文書の発給に関係しており、このころまでに家康の側近となっていたことがわかる。86年従(じゅ)五位下佐渡守(さどのかみ)。90年上野(こうずけ)(群馬県)八幡(やわた)(相模(さがみ)甘縄(たまなわ)説もある)で1万石。のち加増されて2万2000石を領した。1605年(慶長10)ころから秀忠(ひでただ)の側近に配置され、家康の意を受けて実質的に秀忠を指導した。家康とは気心の通じ合った主従であり、君臣水魚の交わりともいうべき逸話が伝わっている。元和(げんな)2年6月7日江戸で没。治国の要を記した『本佐録(ほんさろく)』は正信の著と伝えられるが、後人による仮託であろう。[高木昭作]

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精選版 日本国語大辞典

ほんだ‐まさのぶ【本多正信】
江戸初期の大名。徳川家康の謀臣として近侍し、江戸城下の経営に参画。家康が駿府に移ると二代将軍秀忠の執政として活躍した。「本佐録」の著者といわれる。天文七~元和二年(一五三八‐一六一六

出典:精選版 日本国語大辞典
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旺文社日本史事典 三訂版

本多正信
ほんだまさのぶ
1538〜1616
江戸初期の譜代大名
三河(愛知県)の人。徳川家康・秀忠に仕えて信任を得,幕政に参画して忠勤を励んだ。『本佐録』はその著書といわれている。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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