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李立三【りりっさん】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

李立三
りりっさん
Li Li-san
[生]光緒25(1899).湖南,醴陵
[没]1967.6.22.
中国共産党の一時期の指導者。 1919年勤工倹学生の一人としてフランスに渡り,趙世炎らと労働学会を組織。 21年帰国後共産党に加入。 25年の五・三〇事件の際は上海総工会委員長として活動した。 27年五全大会で中央委員となり,南昌暴動に参加。 28年六全大会で中央政治局委員,宣伝部長となって党の実権を握り,全国の各中心都市での武装蜂起をただちに組織するという冒険的な計画を主張して都市工作を重視し,30年6月「新たな革命の高まりと1省または数省における首戦勝利」という決議を政治局に採択させた。これがいわゆる李立三路線 (あるいは第2次極左路線) である。この都市武装蜂起重視に基づく長沙暴動は大きな犠牲を生み,コミンテルンから極左冒険主義として批判され,31年1月の6期四中全会で陳紹禹秦邦憲らに党の指導権を奪われた。その後,査問のためモスクワに召喚され,15年間滞在。 45年の七全大会で中央委員に選出され,48年中華全国総工会副主席となり,49年中華人民共和国成立とともに政務院労働部長に就任。 56年の八全大会でも中央委員に選ばれ,30年当時の主観主義,セクト主義と 50年当時の総工会における主観主義を自己批判した。 67年まで中央委員,華北局書記,人民政治協商会議常務委員であった。

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デジタル大辞泉

り‐りっさん【李立三】
[1899~1967]中国の政治家。湖南省醴陵(れいりょう)県の人。五・三十事件のとき、上海総工会委員長。1928~1930年、中国共産党の指導者として極左路線を実行。批判を受けて失脚しモスクワに赴く。人民共和国成立後、労働部長・党中央委員などを歴任リー=リーサン。

出典:小学館
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リー‐リーサン【李立三】

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世界大百科事典 第2版

りりつさん【李立三 Lǐ Lì sān】
1899‐1967
中国の革命家。湖南省人。1919年フランスに留学,周恩来らと共産主義青年同盟を組織,21年帰国後入党,主に労働運動の指導を担当した。1930年中国共産党政治局委員として実質上党最高指導者となったが,〈李立三コース〉と称される極左主義の誤りを批判され,31‐46年までモスクワに滞在した。この間〈唯真〉の筆名マルクス=レーニン主義文献を多数翻訳した。帰国後中央人民政府の労働部部長,政治局委員などの要職についたが,文化大革命初期に失意のうちに死去した。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

李立三
りりっさん / リーリーサン
(1899―1967)

中国の政治家、労働運動指導者。湖南省出身。1920年、留法勤工倹学会の一員としてフランスに留学、周恩来らと中国共産党パリ支部を結成、1922年帰国。1925年の五・三○事件では上海(シャンハイ)総工会の委員長として運動を指導した。そのあと中華全国総工会代表としてモスクワのプロフィンテルン大会に出席し、翌1926年帰国。1927年、中共第5回大会で中央委員、ついで南昌蜂起(なんしょうほうき)に参加、翌1928年から上海で活動、中共の中心的指導者として、都市の武装蜂起を重視する極左路線を実行し、大きな犠牲を出すに至った。このいわゆる李立三路線はコミンテルンや王明らの批判を受け、モスクワに呼ばれて1946年まで学習、その間、唯真という筆名で多くのマルクス主義文献を翻訳、1945年の中共第7回大会では中央委員に選出された。中国に戻って1948年中華全国総工会副主席となり、中華人民共和国成立とともに政務院労働部長に就任した。しかし、労働組合指導で誤りを犯したとして、1954年辞職し、1956年の中共第8回大会では「主観主義、派閥主義の誤りを犯した」と自己批判した。この大会で中央委員には再選され、1959年党中央工業工作部副部長についたが、文化大革命の初期にまた批判を受け、失意のうちに死去した。

[安藤彦太郎]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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