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李舜臣【りしゅんしん】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

李舜臣
りしゅんしん
Yi Sunsin
[生]明宗1(1545).漢陽
[没]宣祖31(1598).露梁
朝鮮,朝鮮王朝 (李朝) の武将。京畿道開豊郡中面徳川里 (旧徳水県) 出身。字は汝諧。諡は忠武。宣祖9 (1576) 年武科に及第。同 24年全羅左道水軍節度使となり,亀甲船を創作するなど軍備拡充に努めた。翌年壬辰の倭乱 (→文禄・慶長の役 ) が起ると,水軍を率いて玉浦,閑山島,釜山浦などで日本水軍を撃破,制海権を掌握。このにより水軍統制使に任命された。同 30年元均の誣告官職を奪われたが,同年日本軍の再侵略に際し,元均が閑山島の海戦で敗れたのち,再び水軍統制使になり,明の水軍と協力して日本水軍を破った。しかし同 31年露梁の海戦で流弾に当り戦死。左議政,のちに領議政に追贈された。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル大辞泉

り‐しゅんしん【李舜臣】
[1545~1598]李氏朝鮮武将。徳水の人。字(あざな)は汝諧(じょかい)。諡号(しごう)は忠武。1591年、全羅左道水軍節度使となる。92年、壬辰(じんしん)の乱(文禄の役)で日本水軍を撃破、丁酉(ていゆう)の乱(慶長の役)でも善戦したが、露梁(ろりょう)海戦で戦死。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

李舜臣 り-しゅんしん
1545-1598 朝鮮王朝の武将。
仁宗元年3月8日生まれ。1576年武科に及第,1591年柳成竜推挙で全羅左道水軍節度使となる。翌年豊臣秀吉の第1次朝鮮出兵(文禄(ぶんろく)の役)の際,亀甲船をつかい,日本軍の補給路をたち功をたてるが,のち讒言(ざんげん)により罷免される。1597年秀吉の第2次出兵(慶長の役)で再起用され,日本軍追撃に活躍するが,宣祖31年11月19日の島津勢との戦いで戦死。54歳。救国の英雄として忠武公の名をおくられた。字(あざな)は汝諧。

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

りしゅんしん【李舜臣 (R)I Sun‐sin】
1545‐98
朝鮮,李朝の名将。字は汝諧。号(しごう)は忠武。徳水の人。1576年武科に合格し,柳成竜の推挙で91年2月全羅左道水軍節度使となる。壬辰倭乱(文禄の役)に際し,亀甲船をつくり,当時,斬り込みを中心とする接舷戦法が基本となっていた海戦で火砲戦法を用い,構造的に竜骨を用いず船体の弱い日本海軍に閑山島沖などで連勝した。その功により93年8月,三道(慶尚・全羅・忠清)水軍統制使に任ぜられたが,97年1月,慶尚右道水軍節度使元均らの中傷により無実の罪で捕らえられる。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

李舜臣
りしゅんしん
(1545―1598)

朝鮮、李朝(りちょう)、壬辰(じんしん)・丁酉倭乱(ていゆうわらん)(豊臣(とよとみ)秀吉の朝鮮侵略)における水軍の名将。徳水の人。字(あざな)は汝諧(じょかい)。貞の子。漢城(ソウル)に生まれ、1576年武科に及第した。女真(じょしん)との戦いに軍功をたて、柳成龍(りゅうせいりゅう)の推薦を受けて91年に全羅左道水軍節度使となった。船上に蓋(ふた)をのせ錐(すい)刀を装備した亀甲(きっこう)船を建造して防備に努め、翌92年壬辰の乱が起こると慶尚左道水軍節度使の元均を救援して、日本水軍を玉浦、唐浦、唐項浦、閑山島、釜山(ふざん)など慶尚道海域に連破した。その大勝により朝鮮軍は制海権を確保し、戦局を転換して日本の侵略を挫折(ざせつ)させる機をつくりだした。宣祖は舜臣の軍功を厚く賞し、93年忠清全羅慶尚三道水軍統制使を兼職させて全水軍の指揮をゆだねた。97年丁酉の乱には、初め元均の讒言(ざんげん)により統制使を罷免されたが、元均の敗死後に再起用され、少数の兵力により善戦して日本水軍を圧迫し、98年11月露梁(ろりょう)の戦いに大勝したが弾丸にあたって戦死した。忠武公と諡(おくりな)を贈られ、救国の名将として長く追慕された。

[糟谷憲一]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

り‐しゅんしん【李舜臣】
李氏朝鮮の武将。徳水の人。字は汝諧。諡号は忠武。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に活躍した。一五九二年、壬辰の乱(文祿の役)で日本水軍を撃破、丁酉の乱(慶長の役)でも善戦したが、露梁海戦で戦死。(一五四五‐九八

出典:精選版 日本国語大辞典
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