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条約改正【ジョウヤクカイセイ】

デジタル大辞泉

じょうやく‐かいせい〔デウヤク‐〕【条約改正】
明治期における、江戸幕府が諸外国と結んだ不平等条約改正事業。明治27年(1894)治外法権撤廃に成功(第一次条約改正)、同44年関税自主権回復(第二次条約改正)した。

出典:小学館
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世界大百科事典 第2版

じょうやくかいせい【条約改正】
幕末から明治初年にかけて日本が欧米諸国と締結した不平等な対外条約を改正するにいたるまでの外交交渉。当時,欧米諸国は日本や清国,トルコなどの非キリスト教国に対して司法制度の相違を理由に,領事裁判権を設定した。これは外国人の自治を認める居留地の制度と結合して,その国の主権を侵害した。そのうえ非キリスト教国ののみが関税協定と最恵国待遇を強要されたので,条約は務的で不平等な義務を非キリスト教国に課していた。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

じょうやくかいせい【条約改正】
江戸末期の1858年に欧米諸国と結んだ通商条約(不平等条約)の改正。治外法権の撤廃、関税自主権の回復などが中心。歴代の外相が努力し、1894年(明治27)外相陸奥宗光が日英通商航海条約において治外法権撤廃に成功(1899年実施)、1911年(明治44)外相小村寿太郎によって関税自主権が回復された。

出典:三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)

条約改正
じょうやくかいせい
幕末、列国との間に締結された不平等条約を改正するため、明治時代に行われた政治交渉。アメリカをはじめ、西洋列強の圧力に幕府が屈して締結されるに至った、いわゆる安政(あんせい)五か国条約(1858)は、(1)片務的領事裁判規定があり、外国人犯罪に日本の法律、裁判は適用されず、(2)関税自主権も日本側のみに与えられず、税権の独立を欠く典型的な不平等条約であった。改税約書が結ばれてからは、関税率が5%の低率に固定されたままとなり、安い外国商品が大量に日本市場に流入し、国際収支を不均衡にしたばかりか、日本の産業発達を著しく阻害した。このように日本の独立と国益とを損なう不平等条約の改正は、民族主義を国家政策の基本理念に掲げて成立した明治政府にとって、最大の悲願ともいうべきものであった。
 1871年(明治4)政府は岩倉使節を欧米各国に派遣して列国の意向を打診したが失敗に終わり、76年から外務卿(きょう)寺島宗則(むねのり)の下で、まず関税自主権の回復を目ざす外交交渉が、列国代表との間に個別に始められた。殖産興業政策を強力に展開し、産業保護、歳入増大を図る観点から、とくに税権の回復が切実に要望されたからである。ところがイギリス公使パークスの強い反対でこの交渉は挫折(ざせつ)し、日本側提案を認めたアメリカとの改定約書も、他の列強の同意が発効の要件となっていたので、死文に等しいものとなった。79年かわって外務卿に就任した井上馨(かおる)は、方針を転換して税権、法権をともに漸進的に回復しようと試みたが、その背景には領事裁判に隠れた外国人犯罪事件が国内人心を刺激したこともあって、とりわけ法権回復に専念することになった。井上案に対しても依然強硬なイギリス側の提案で、82年より東京で条約改正予議会が開かれた。この会議ではとくに法権回復に難色が示され、西洋人関係の裁判を日本の司法権下に置くにあたり、(1)とくに西洋人法官採用の特例を認め、西洋人法官が多数を占める日本人法官との混成裁判で運用する、(2)西洋法制の原理に基づく日本の成文法規を速やかに制定する、(3)内地の居住権、営業権をすべて外国人に開放する、などを条件とすることでようやくまとまった。86年からの改正本会議もこの案で妥結し、加えて関税率も5%から11%に引き上げることに列国側は同意した。この間、井上外相は交渉を有利に展開するため、日本が急速に西洋化したとの外観をつくりだそうとした。ここに鹿鳴館(ろくめいかん)時代とよばれる欧米の風俗を模倣する風潮が、上流社会に一時流行することとなった。しかるに政府顧問ボアソナードは、この改正案の内容が日本の法権独立を毀損(きそん)するものであるとして反対意見を唱えた。政府内にはほかにも有力な反対意見があったうえ、内容を漏れ知った自由民権派が国辱であると非難して対外硬論を掲げ、反政府運動が高まりをみせた。87年井上外相は辞職し、条約改正交渉は延期となったが、政情は沈静せず、ために政府は保安条例を発布して秩序の回復を図った。
 井上の後任に推された自由民権派立憲改進党系の外相大隈重信(おおくましげのぶ)は、列強と個別交渉を行う方法に切り替え、井上時代の改正案を基調としながら、一方では現行条約を遵守することによって、居留地外に進出するための外国人側の脱法行為を厳しく取り締まり、現行条約の不便さを外国人に痛感させ、そのことによってより有利な条件をかちとろうと試みた。まずメキシコとの間に相互平等条約(1888)が、ついで1889年アメリカとの間に、(1)西洋人関係の裁判に西洋人法官が多数を占める混成裁判所を大審院のみに限り、(2)成文法体系は整備するが、西洋法原理にはとらわれない、との条件で日本の法権回復を認め、引き換えに日本内地を開放する単独条約が締結された。しかるにイギリスはあくまでこの内容に反対し、しかもその内容がタイムズ紙上を通じて日本国内に伝わるに及んで、自由民権派自由党系や国家主義者らは、憲法違反、内地雑居の危険を叫んで政府攻撃を展開した。大隈は刺客の爆弾によって負傷し、改正交渉はまたも挫折し、単独条約も取消しとなった。
 このように条約改正は、列国の圧力と国内自由民権派の反対で板挟みのなかに難航を重ねた。しかるに、シベリア鉄道の起工を計画するロシアの極東進出政策に、イギリスは警戒を深め、そのため日英間の友好関係を重視するようになったので、この難境も打開されていくこととなった。
 第一次山県有朋(やまがたありとも)内閣の外相青木周蔵(前外務次官)が、大隈案の失敗にかんがみ、西洋人法官を採用せず、成文法体系の整備も公約しないで領事裁判権を撤廃しようとする案を提示したのに対し、イギリスは意外にも妥協を示し始めた。大津事件で辞任した青木の後任、榎本武揚(えのもとたけあき)も青木の路線を受けて列国と交渉、まずポルトガルとの間で領事裁判権撤廃に成功した。ついで第二次伊藤内閣の外相陸奥宗光(むつむねみつ)は、イギリス、ドイツ、アメリカ3国に対する各国別の交渉を開始、青木駐独公使(元外相)の尽力により、成文法規制定後の法治化を理由に、1894年7月まずイギリスとの間に治外法権の撤廃、税率引上げの交渉に成功した。このときの条件は、内地開放(雑居)であったが、対外硬派はこの点をとらえて政府反対の気勢をあげ、そのため内閣は相次いで衆議院を解散する強硬手段をとって、事態を乗り切らなくてはならなかった。日清(にっしん)戦争の勝利という国際的地位の向上にも助けられて、97年末までに残る列国との間に同じ内容の改正調印が行われた(1899年7月から発効)。しかし、これらの改正条約で旧居留地の永代借地権は回収されないままだったため、のちに問題を残すこととなった。他方、関税自主権の回復はこれより遅れ、日露戦争後第二次桂(かつら)太郎内閣のとき1911年(明治44)7月、前述の第一次改正条約の締結期限の終了をまって、外相小村寿太郎(じゅたろう)の下で実現され、ここに日本は名実ともに独立国家となり、列強と対等な国際関係に入ることとなった。[田中時彦]
『山本茂著『条約改正史』(1943・高山書院) ▽稲生典太郎著『条約改正論の歴史的展開』(1976・小峰書店) ▽大山梓・稲生典太郎編『条約改正調書集成』上下(1991・原書房) ▽山本茂著『条約改正史』(1997・大空社) ▽小宮一夫著『条約改正と国内政治』(2001・吉川弘文館) ▽藤原明久著『日本条約改正史の研究 井上・大隈の改正交渉と欧米列国』(2004・雄松堂出版) ▽井上清著『条約改正』(岩波新書)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

じょうやく‐かいせい デウヤク‥【条約改正】
[1] 〘名〙 条約を改め正すこと。〔英和外交商業字彙(1900)〕
[2] 幕末の安政年間(一八五四‐六〇)に江戸幕府が諸外国と結んだ修好通商条約などの不平等条約の改正。治外法権の撤廃、関税自主権の回復などを主眼とする。明治維新後、井上馨、大隈重信など歴代の外相が失敗。明治二七年(一八九四)外相陸奥宗光がイギリスとの交渉で治外法権撤廃に成功、のち、他の国々とも同様の改正を行なった。関税自主権の回復は明治四四年(一九一一)に外相小村寿太郎により実現した。

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旺文社日本史事典 三訂版

条約改正
じょうやくかいせい
明治時代の不平等条約を対等に改めた交渉
幕末に結んだ修好通商条約(安政の五カ国条約)は関税自主権がなく領事裁判権を認める不平等条約であったので,明治政府は条約改正を企図し,1871年岩倉遣外使節を派遣したがアメリカに拒否された。その後,民間では民族的自覚を説いたが,政府は外国への懇願妥協で目的を達しようとし,'78年寺島宗則外務卿はアメリカとの間で関税自主権を回復する新条約に調印したが,イギリスなどの反対で失敗。後任の井上馨外務卿は欧化政策をとったが,外国人裁判官任用問題で各方面からの反対をうけ失敗した。つづいて大隈重信外相案も大審院に外国人裁判官任用の点で猛反対をうけ失敗。その後,青木周蔵外相は大隈案を修正し交渉に臨んだが,大津事件で頓挫し,後任の榎本武揚外相の交渉も本格化するには至らなかった。陸奥宗光外相のとき,対ロシア関係の悪化から日本に接近したイギリスの承認により,'94年領事裁判権の撤廃に成功。1911年小村寿太郎外相のとき,関税自主権を回復した。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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