●条里制【じょうりせい】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
条里制
じょうりせい
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デジタル大辞泉
じょうり‐せい〔デウリ‐〕【条里制】
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防府市歴史用語集
条里制
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世界大百科事典 第2版
じょうりせい【条里制】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
条里制
じょうりせい
古代日本の律令(りつりょう)体制下における土地区画制度。方格の耕地区画としての条里地割と、条・里・坪(つぼ)による土地の表示方式としての条里地番法を組み合わせて耕地を国家的に支配・管理し、班田制度を補完する役割を果たした。条里地割は、『日本書紀』『拾芥抄(しゅうがいしょう)』やその他の文献史料によると、古代から中世にかけて阡陌(せんぱく)とよばれている。
[服部昌之]
耕地区画
その耕地区画は、方1町(1辺が60歩(ぶ)、約109メートル)の坪区画が基本で、坪(田積1町=10段)内部の地割は幅12歩・長さ30歩の半折(はおり)型と、幅6歩・長さ60歩の長地(ながじ)型に分けられる。いずれも田積は1段である。坪の上位の単位は方6町の里区画で、1坪から36坪の通し番号をつけるが、その配列(坪並(つぼなみ)という)には各行の数字順を折り返して続ける連続(千鳥)式と、それが同一方向となる平(並)行式とがある。また里の位置は、郡を単位として数字番号をつけた条と里を縦横の座標軸として組み合わせて五条六里九坪のように示すが、条と里のかわりに図・里や条・坊を用いたり、真野条七成相里のごとく地名による場合もある。
[服部昌之]
成立過程
条里制の成立過程はかならずしも明確ではない。しかし6世紀末から7世紀初頭に条里型地割が局地的に出現した可能性が高く、さらに7世紀後半から8世紀中期にかけて、全国の平野において既成の耕地を再編し、新たな土地開発を進めて施行されたものと推定される。班田収授のための条里地割による耕地の規格化は、水利施設や農道の整備を伴う大規模な土木事業であり、農業生産の発展と安定に大きく寄与して農業史の画期となった。耕地の所在は小字(こあざ)地名と四至(しいし)で表示されていたが、717年(養老1)ころには山背国(やましろのくに)久世(くぜ)郡路里一七坪のように地名による里と坪地番で示され、さらに8世紀中期には大倭国(やまとのくに)広湍(ひろせ)郡二〇条五里六坊(坪)のごとく、郡ごとに数字による条と里の地番法が導入される。この新たな条里地番法は、墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)という土地政策に応じて耕地の位置と面積・範囲を厳密に掌握するための統一的な措置であり、班田図・校田図・田籍・青苗簿(せいびょうぼ)など律令国家の基礎となる土地関係諸記録における登録様式は、よりいっそう整備されることとなる。したがって8世紀中期は土地制度としての条里制の完成期であった。現存する班田図や開田図、墾田図は条里に従って図示されており、また条里坪付(つぼつけ)を記した荘園(しょうえん)関係の史料も数多く伝来している。条里地割、条里地番法および条里制は、都京・国府などの都市、駅路を主とする幹線交通路、地方行政組織としての国郡制の領域と境界などと緊密な関連性を保ちながら計画され、施行されたことが注目されている。
[服部昌之]
変容と崩壊
しかし10世紀から11世紀初頭になると、国司や国衙(こくが)によって条里地番が拡張・修正されて条里地割以外の土地をも広く包括することとなり、ついで11世紀後半から12世紀前半では、条里地番は国衙、荘園領主、在地領主などによって恣意(しい)的に変更されるとともに、新しく開発された耕地や荒廃した耕地では条里地番がとられなくなる傾向が進む。さらに12世紀後半から14世紀前半の時期では、それが荘園や所領単位ごとに再編されるため形骸(けいがい)化して条里地割と分離し、その後はほとんどの地方で姿を消すのである。条里制の変容と崩壊の時期である。
[服部昌之]
条里遺構
条里地割は現代にその遺構を伝え、奈良盆地、京都盆地、大阪平野を中心に、瀬戸内海沿岸から北九州、あるいは近江(おうみ)盆地、伊勢(いせ)平野、濃尾(のうび)平野、福井平野などに広く分布し、そこには三条、七里、五坪などの条里地名が多数遺存している。また東北地方の秋田平野、横手盆地、南九州の国分(こくぶ)平野、川内川(せんだいがわ)下流平野、あるいは佐渡(さど)、隠岐(おき)、小豆島(しょうどしま)などの離島や、高山盆地、阿蘇(あそ)火口原などの山間盆地においても、その遺構が確認されている。古代の耕地区画の大部分が荒廃と再開発を繰り返して改変されながらも現代まで維持されてきたことを示しているが、最近の都市化と圃場(ほじょう)整備によって急速に遺構が消滅しつつある。また一方、発掘調査が進んで、地下に埋没した条里地割の水田址(し)が数多く明らかにされて注目されているものもある。
[服部昌之]
『落合重信著『条里制』(1967・吉川弘文館)』
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精選版 日本国語大辞典
じょうり‐せい デウリ‥【条里制】
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旺文社日本史事典 三訂版
条里制
じょうりせい
土地を6町(360歩)間隔で正方形に区切り,横列を条,縦列を里と呼び,さらに6町四方の各辺を1町ごとに区切り36坪に細分して,この条里坪ごとに千鳥式や平行式に番号をつけて位置を表した。また坪は10区画に分けたが,これには長地 (ながち) 型縦60歩,横6歩のものと,半折 (はおり) 型縦30歩,横12歩のものの2種があった。
出典:旺文社日本史事典 三訂版
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