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東方植民【とうほうしょくみん】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

東方植民
とうほうしょくみん
Ostdeutsche Kolonisation
12~14世紀に行われたエルベ,ザーレ両川以東の地への西部ドイツ人の大量植民。エルベ以東の地方は,民族大移動前ゲルマン人の居住地域であったが,その後スラブ人 (ベンド人) により占拠された。このスラブ人に対しドイツ諸皇帝は武力で支配しようと企てた。ハインリヒ1世のブルクワルト (堡城) の設置,オットー1世 (大帝) によるザクセン人の辺境伯設置などその例である。 12世紀ザクセン朝最後の王ロタール2世は,エルベ川以東の地にドイツ騎士とキリスト教化したベンド人より成る辺境領を設定した。彼らはその支配強化と土地開発を目指して,有利な条件で西ドイツ農民に移住を呼びかけ,これに応じて西部ドイツ,フリースラント,フランドル各地から大規模な集団移住が行われた。このときシトー会をはじめとするキリスト教修道会は,異教徒のキリスト教化と荒地開墾に成果を残した。 13世紀以後,移住は散発的となったが,現状不満の農民たちが移住し,村落を設け,また新来のドイツ市民によって多くの都市も創設された。ブランデンブルク=プロシア,ザクセン国などは,この植民の結果,生れた東方の大領邦である。

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世界大百科事典 第2版

とうほうしょくみん【東方植民 Ostkolonisation[ドイツ]】
狭義には,12~13世紀にネーデルラントやドイツ西部からエルベ川以東に多数の農民,市民,騎士が移動し,遠くウクライナまで足跡をのこした移住現象の全体を,東方植民(東ドイツ植民)運動とよぶ。この運動は中世後期までつづき,ひとたびとだえるが,17~18世紀に再びドイツ人の東進運動が起こる。広義には近代の東進運動を含める場合もあるが,ここでは中世の東ドイツ植民のみを扱う。 人間の大量移動現象としてみた場合,東ドイツ植民はヨーロッパ史全体のなかではけっして唯一のものではなく,先史時代からはじまり,数千年もつづけられてきた長期にわたる土地開発の一つの頂点にすぎない。

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大辞林 第三版

とうほうしょくみん【東方植民】
一二世紀から一五世紀にかけてドイツ諸侯がおこなったエルベ川以東のスラブ人居住地への植民活動。ドイツ騎士団による軍事的な植民活動もあった。一五世紀にポーランドが攻勢に転じたので終了した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

東方植民
とうほうしょくみん
Ostkolonisationドイツ語
12世紀初頭より14世紀まで行われたドイツ人の東方スラブ人居住地域への植民事業。東ドイツ植民運動ともいう。主として東部国境地域の領邦君主によって植民が推進された前期(13世紀初頭まで)と、ドイツ騎士団が中心となってプロイセンの征服、植民が行われた後期とに分けられる。
 民族移動後のゲルマン人の定住地域の東境は、ほぼエルベ川とその支流ザーレ川、ボヘミアの森とバイエルン東境を連ねる線であり、それ以東はスラブ人の居住地であった。10世紀以降、この地域のキリスト教会が精力的に活動を行い、多数の司教座が建設され、後の東方植民の前提がつくられたが、バイエルンに隣接する南部地域を除けば、植民活動はあまり進展せず、とくに983年のスラブ人の大反乱の結果、エルベ、オーデル両川間に設置された、ザクセン東方の諸マルクも放棄せざるをえなかった。ところが12世紀初頭以来、活発な植民活動が再開され、本格的な東方植民運動が展開される。
 この時代は、ドイツ本国でも都市の発展、国内開墾の盛行などから知られるように、一種の経済成長がみられた時期であり、それに伴う急激な人口増加によって生み出された過剰人口が、東方植民の形で流出した。ザクセンのハインリヒ獅子(しし)公、ノルトマルク(後のマルク・ブランデンブルク)の辺境伯アルプレヒト、マイセンとラウジッツの辺境伯コンラートなど東部国境地域の大諸侯たちが、東方に支配領域を広げて、それぞれの領国を形成すべく、積極的に植民を誘致し、植民村落の設置と、要地に都市建設を行った功績は大きい。1147年以降、これら諸侯が共同で、エルベ川とオーデル川に挟まれた地域のスラブ人(ドイツ人はこれをウェンド人Wendenとよぶ)に対する征服戦争(対ウェンド十字軍)を敢行した結果、先住民の組織的抵抗という最大の障害が除かれ、以後植民運動は津波のような勢いで進行した。
 13世紀の前半以降は、植民運動の主役としてドイツ騎士団が加わる。1226年、プロイセン人の抵抗に手を焼いたポーランドの大領主コンラートが、彼らのキリスト教化を騎士団に委任したのがきっかけで、1283年までに、騎士団はプロイセン全域を征服し、ポーランド王の名目的宗主権の下にたつが、事実上はほとんど独立国家といえるドイツ騎士団領をつくりあげた。
 領邦諸侯や騎士団は、実際の植民事業の遂行をロカトールLocatorとよばれる請負人にゆだねた。ロカトールは、ドイツ本国において植民者を募集し、彼らを率いて植民村落の建設を行った。ロカトールは村長として裁判権などの特権を賦与され、村民から地代を徴収して、領主である諸侯や騎士団に納めた。植民地域の建設都市のうち、バルト海沿岸の海港都市や比較的大きな商業都市のように、ハンザ都市その他本国の都市が母都市となり、母都市の商人団が娘都市Tochterstaadを建設したものもあるが、内陸の中・小都市の多くは、植民村落の場合と類似の方法で、ロカトールの請負により建設された。
 第二次世界大戦後、東方植民の歴史的評価をめぐり、この地域の経済や文化の向上に寄与した点を強調する旧西ドイツの歴史家と、侵略的植民地化にすぎないと否定的に評価する旧東ドイツや社会主義圏の歴史家との間で、見解が対立している。当時の西ドイツで、東方植民のかわりに、「東方移住」(OstsiedlungないしOstbewegung)という表現が用いられるようになったのは、これと関係している。[平城照介]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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旺文社世界史事典 三訂版

東方植民
とうほうしょくみん
Ostdeutsche Kolonisation
12〜14世紀にかけて行われたエルベ川以東のスラヴ人居住地へのドイツ人の植民運動
ハインリヒ獅子 (しし) 公のリューベック司教区建設に始まり,征服と開拓農民の進出に伴って司教区が増加した。この結果,ドイツ騎士団領が成立してこの地域がドイツ化され,プロイセンの起源となるとともに,今日まで民族問題を残すことになった。

出典:旺文社世界史事典 三訂版
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