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東欧映画【とうおうえいが】

日本大百科全書(ニッポニカ)

東欧映画
とうおうえいが
東ヨーロッパには早くから映画が紹介されていたが、国際的に注目される作品は第二次世界大戦前はほとんど製作されていない。戦後ソ連圏となり社会主義国家になったことから各国で映画産業は次々と国有化され、政権の路線によって作風を微妙に変えたりもしたが、しだいに社会主義の公式的な内容から脱して民族的独自性を深く反映した作品に本領を発揮し始めた。優れた作品が多く、とくに短編アニメーションや文化映画などで独自の地位を誇っていた。しかし社会主義崩壊後はボスニア・ヘルツェゴビナ出身のクストリッツァなど、一部の映画監督の活躍を除き、各国とも映画製作状況は低迷している。なお、旧東ドイツは「ドイツ映画」の項目を参照されたい。[山田正明・村山匡一郎]

ポーランド

ポーランドの映画史は、1896年のクラクフとワルシャワでのリュミエール方式の上映会によって始まる。初期には短編記録映画が製作され、1908年に初の劇映画『アントンのワルシャワ初訪問』が公開された。1918年の独立直後には製作会社はわずかに3社であったが、その後映画界は大きく発展し、文化の重要な地位を占めるに至った。両世界大戦間では、民族文学作品の映画化の評価が高く、多くが映画化され、当時の商業主義に抵抗した映画芸術集団「スタルト(出発)」(1929~1934)が組織された。第二次世界大戦中のポーランド映画界はナチスの徹底した弾圧と破壊を受けた。
 第二次世界大戦後、1945年にすべての映画産業は国営化され、三つの映画製作所が開設された。戦後の第1回作品は、ナチス占領下のワルシャワ市民の抵抗を描いたレオナルド・ブチコフスキLeonard Buczkowski(1900―1967)の『禁じられた歌』(1947)で、この作品のテーマである強固な抵抗精神と英雄主義が、現在までポーランド映画の重要な要素となっている。当時の監督に、「スタルト」のメンバーであったワンダ・ヤクボフスカWanda Jakubowska(1907―1998)、アレクサンドル・フォルトAleksander Ford(1908―1980)らがいる。一時、社会主義リアリズムの洗礼を受けるが、非スターリン化のなかで独自の発展を遂げていった。1953年には、東欧のなかでも独特の独立プロダクション製作方式(ユニット制)を取り入れ、それによって映画人の意欲は向上し、アンジェイ・ワイダの『灰とダイヤモンド』(1958)、イエジー・カワレロビチの『影』(1956)、アンジェイ・ムンクの『エロイカ』(1958)などによって代表される「ポーランド派」の秀作を生み出した。イタリアのネオレアリズモの影響を受けたその新鮮な映像感覚と主題は世界に衝撃を与えた。
 ポーランド派以後の新世代として、『水の中のナイフ』(1962)のロマン・ポランスキ、『早春』(1970)のイエジー・スコリモフスキ、『黒土の塩』(1970)のカジミェシ・クツKazimierz Kutz(1929―2018)らが登場した。1970年代には社会主義体制内の矛盾をついた「モラルの不安派」が登場し、記録映画『ある党員の履歴書』(1975)のクシシュトフ・キェシロフスキ、『保護色』(1977)のクシシュトフ・ザヌーシKrzysztof Zanussi(1939― )らの戦後派が大きな支持を得たが、1981年カンヌ国際映画祭でのワイダの『鉄の男』のグランプリ受賞を頂点として、同年末の戒厳令以後、低迷期に入った。しかし軍政下の過酷な状況にあっても、新しい世代を輩出し、『監禁』(1985)のベスワフ・サニエフスキWiesaw Saniewski(1948― )、『叫び』(1982)の女流監督バルバラ・サスBarbara Sass(1936―2015)らがとくに注目された。
 1980年代前半は忍従の時代であった。後半に入るにしたがい自由化の兆しがみえ始め、映画界の動きも活発化する。その動きはグダニスク湾沿いのグディニアの国内映画祭から始まり、軍政下で上映禁止となっていた作品が次々と上映された。さらに1989年、1990年の革命的ともいえる完全自由化で映画界は劇的な転換期を迎えた。共産主義時代の暗部を描くことがおもなテーマとなり、のちには商業主義の洗礼を受けるまでになったのである。そのころの代表作はワイダの『鷲(わし)の指輪』(1992)である。戒厳令後から現在まで、もっとも活躍したのは『デカローグ』(1988~1989)、『トリコロール』三部作(1993~1994)で知られるキェシロフスキである。しかし、彼は世界的な名声を得て絶頂期にあった1996年に55歳でこの世を去り、その死はかつてのムンクの死と同様にポーランド映画界にとって大きな損失となった。新しく登場した欧米的な娯楽映画のなかでは、ウラディスラフ・パシコフスキWadysaw Pasikowski(1959― )のギャング映画『ポリ公2――最後の血』(1994)が国内で大ヒットとなった。しかし経済的な問題から製作本数は大きく減少し、不振が続いた。
 そんな状況に復調の兆しが見え始めるのは、1990年代末から2000年代初めである。イエジー・ホフマンJerzy Hoffman(1932― )の『ファイアー・アンド・ソード(火と剣で)』(1999)、ワイダの『パン・タデウシュ物語』(1999)、カワレロビチの『クォ・ヴァディス』(2001)など文学作品の映画化が興行的に成功し、またポランスキの『戦場のピアニスト』(2002)が世界中で多くの賞に輝いた。その一方で、『エディ』(2002)のビョートル・チシャスカルスキPiotr Trzaskalski(1964― )、『ワルシャワ』(2003)のダリウシュ・ガイェフスキDariusz Gajewski(1964― )、『笞(むち)の痕(あと)』(2004)のマグダレーナ・ピェコシュMagdalena Piekorz(1974― )といった新人が輩出している。2005年には「ポーランド映画芸術研究所」(PISF)が設立され、また同年の「映画法」の施行によって、映画産業の振興と促進が図られることになった。
 長編映画の製作本数は合作を含めて年間27本、映画館数は695、年間の観客動員数は2751万人(1999)。[山田正明・村山匡一郎]

チェコとスロバキア

チェコおよびスロバキアの映画が職人的な映画製作から映画産業へと大きく発展したのは第一次世界大戦以降で、1920年代なかばには撮影所や映画館などの設備が整い、1930年代に入るとヨーロッパでも有数の映画生産国となった。グスタフ・マハティGustav Machat(1901―1963)の『春の調べ』(1933)などの作品が国際的な評価を受けたが、やがてナチスの台頭によって映画も壊滅した。第二次世界大戦後、映画は国有化され、チェコではプラハ近郊のバランドフ、スロバキアではブラチスラバのコリバをはじめとする撮影所の近代化や、若い映画人の育成、カルロビ・バリ国際映画祭の創設(1950~。偶数年の6月に開催)などにより新しい発展をみることになる。なかでも人形劇を中心とするアニメーション映画の隆盛は目覚ましく、イジー・トルンカJi Trnka(1912―1969)やカレル・ゼーマンらが国際的な名声を得た。
 第二次世界大戦後しばらく沈滞ぎみだった劇映画も1957年の「雪どけ」以降、若い映画人たちの台頭によって活況を呈し始めた。1960年代に入ると、ミロス・フォアマンの『黒いペートル』(1963)、ヤロミール・イレシュJaromil Jire(1935―2001)の『叫び』(1963)、ヤン・ニェメッツJan Nmec(1936―2016)の『夜のダイヤモンド』(1964)、イジー・メンゼルの『厳重に監視された列車』(1966)、女流監督のヴェラ・ヒティロバVera Chytilov(1929―2014)の『ひなぎく』(1966)など優れた作品が輩出し、新しい時代の到来を告げた。だが、この「新しい波」も1968年のチェコ事件によって沈黙せざるをえなくなり、フォアマン、ヤン・カダールJan Kadr(1918―1979)、アイバン・パッサーIvan Passer(1933― )らが国外に去った。こうした痛手にもかかわらず、1970年代には毎年50本ほどの長編映画が製作されており、沈黙していた人々もしだいに現場に復帰し、フランチシェク・ブラーチルFrantiek Vlil(1924―1999)の『暑い夏の影』(1977)、ユライ・ヤクビスコJuraj Jakubisko(1938― )の『千年の蜜蜂(みつばち)』(1983)などの秀作もつくられ、ふたたびかつての活況を取り戻した。
 しかし、1989年に東欧諸国に民主化運動が起こり、チェコスロバキアでも11月の「ビロード革命」によって共産党政権が崩壊、1993年にはチェコ共和国とスロバキア共和国に分離・独立するにいたった。そのため、映画界もそれぞれの国に二分され、以後は分離数年前の時期も含めてチェコ映画、スロバキア映画とよばれるようになった。チェコ映画では、『プラハの人々は私を認めた』(1991)のヒティロバや『美しき日々の最期』(1989)のメンゼルらが精力的に作品を発表し、またスロバキア映画では『貧困で病気より金持ちで健康の方がいい』(1992)のヤクビスコらが活躍した。だが、これまでの社会主義体制下の映画製作と異なり、市場経済への移行とその混乱を背景にした商業主義的な映画製作のなかで、この分離・独立した二つの映画界は、新たな再生の模索を始めた。なかでもチェコ映画は、『コーリャ 愛のプラハ』(1996)や『ダーク・ブルー』(2001)のヤン・スヴィエラークJan Svrk(1965― )、『この素晴らしき世界』(2000)や『ホレム・パーデム』(2004)のヤン・フジェベイクJan Hebejk(1967― )といった若い世代の活躍が著しく、これまでの伝統を受け継ぎながらも新しい感覚で世界から高い評価を受けている。チェコの長編映画の製作本数は合作を含めて年間21本、映画館数は823、年間観客動員数は835万人(1999)。スロバキアの長編映画製作本数は合作を含めて年間6本、映画館数は335、年間観客動員数は303万人(1999)。[村山匡一郎]

ハンガリー

ハンガリー映画は国際映画祭で毎年多くの賞を獲得し、注目される映画を世に送り出している。フェイェーシュ・パールFejs Pl(1898―1963)の『春の驟雨(しゅうう)』(1932)、ラドバーニ・ゲーザRadvnyi Gza(1907―1986)の『ヨーロッパの何処(どこ)かで』(1947)、ファーブリ・ゾルターンFbri Zoltn(1917―1994)の『メリーゴーラウンド』(1956)、ヤンチョー・ミクローシュJancs Mikls(1921―2014)の『密告の砦(とりで)』(1965)、1967年カンヌ国際映画祭「最優秀監督賞」を受賞したコーシャ・フェレンツKsa Ferenc(1937― )の『1万の太陽』(1965)、1981年アカデミー賞「最優秀外国語映画賞」を受賞したサボー・イシュトバーンSzab Istvn(1938― )の『メフィスト』(1981)、フサーリク・ゾルターンHuszrik Zoltn(1931―1981)の『エレジー』(1965)などの名作は日本でも公開されている。
 国外で活躍した映画人には、1919年の共産革命(ハンガリー評議会共和国=ハンガリー・ソビエト共和国)を避けてアメリカで『カサブランカ』(1942)などを監督したケルテース・ミハーイKertsz Mihly(マイケル・カーティズ、1888―1962)、第一次世界大戦後の共産革命の崩壊後亡命し、イギリスでロンドン・フィルムを創設したコルダ・シャーンドルKorda Sndor(アレクサンダー・コルダ、1893―1956)、第二次世界大戦後に帰国した映画理論家バラージュ・ベーラBalzs Bla(1884―1949)、『ベン・ハー』(1959)の映画音楽ロージャ・ミクローシュRzsa Mikls(1907―1995)、『未知との遭遇』(1977)の撮影監督ジグモンド・ビルモシュZsigmond Vilmos(1930―2016)、ハリウッド映画『魔人ドラキュラ』(1931)のドラキュラ役で一世を風靡(ふうび)したルゴシ・ベーラLugosi Bla(1882―1956)、スペイン映画『汚れなき悪戯』(1955)で有名なヴァイダ・ラースローVajda Lszl(ホセ・ヴァホダ、1906―1965)らが有名である。
 ハンガリーで最初に映画が上映されたのは1896年で、記録に残る最初のハンガリー映画はジトコフスキ・ベーラZsitkovszky Bla(1867―1930)の『踊り』(1901)である。1911年には最初の常設スタジオをもつ映画会社が創設され、1912~1919年の間には32もの映画会社が設立されていた。1917年にコルダが設立した映画会社(コルヴィン映画製作所)はほかの映画会社とともに1949年国有化され、さらに1964年には複数の国有化された映画会社が統合され、ハンガリー映画製作社(マフィルム)となった。第二次世界大戦後は社会主義国になったが、1956年のハンガリー動乱までのスターリン主義時代を除いては映画にイデオロギーが極端に顔を出すことはほとんどなかった。また社会主義時代のハンガリーでは映画監督になるには5年制の演劇映画大学を卒業して、資格を取得しなければならなかった。1958年には大学院的実験工房としてバラージュ・ベーラ・スタジオが設立され、この「国は金は出すが、口は出さない」という自由なスタジオは優れた監督を輩出した。
 ハンガリーは1990年に社会主義体制に終止符を打ち、ハンガリーの映画産業は大打撃を受けた。マフィルムは1992年に倒産し、同年に株式会社として再建されることになった。ハリウッド的な外国の娯楽産業が市場を席捲(せっけん)し、芸術的なハンガリー映画には資金も集まらず、上映館もみつからないという惨状になったが、国会議員となったコーシャ監督が中心となり、国の特殊法人として映画基金が設立され、国産映画には一定の補助金が支出されるようになった。また、2004年には国内の映画振興を目的とした「映画法」が成立した。非常に厳しい状況ではあるが、体制転換後、1985年第1回東京国際映画祭で最優秀監督賞受賞の『止った時間』(1981)や『怪盗バスカ』(1996)のゴタール・ペーテルGothr Pter(1947― )や『サタン・タンゴ』(1994)、『ヴェルクマイスター・ハーモニー』(2000)のタル・ベーラTarr Bla(1955― )、『射的場』(1990)、『捨てられて』(2001)のショプシチ・アールパードSopsits rpd(1952― )、『チコ』(2001)のフェケテ・イボヤFekete Ibolya(1951― )、『ハックル』(2002)、『タクシデルミア――ある剥製(はくせい)師の遺言』(2006)のパールフィ・ジェルジュPlfi Gyrgy(1974― )、『美少女たち』(1987)、『ビヨンド・ザ・ベンド』(2002)のデール・アンドラーシュDr Andrs(1954― )のような若手の監督が注目されている。年間の製作本数は劇映画が39本、ドキュメンタリー映画が181本、アニメが21本、その他の映画が129本、合計370本(2005)。映画館数は466、年間の観客動員数は1209万人(2005)。[深谷志寿]

旧ユーゴスラビア

旧ユーゴスラビアは、連邦の映画会社だけでなく1940年代後半にそれぞれの共和国の製作会社も創設され、数は少ないが独自の製作を続けてきた。ユーゴスラビア映画の主要テーマは対ナチスのパルチザン闘争とその時代が主であったが、1950年代後半から若手が登場し、1960年代になると複雑な社会の問題に目を向けた優れた現代作品もつくられるようになった。『ジプシーの唄をきいた』(1967)のアレクサンドル・ペトロヴィッチAleksandar Petrovi(1929―1994/セルビア出身)や『保護なき純潔』(1968)、『オルガニズムの神秘』(1971)のドゥシャン・マカベーイェフDuan Makavejev(1932― /セルビア出身)らが活躍したが、1970年代前半にはふたたび映画は低迷。やがて、『歌っているのは誰?』(1980)のスロボダン・シアンSlobodan ijan(1946― /セルビア出身)やエミール・クストリッツァ(ボスニア・ヘルツェゴビナ出身)ら新世代が登場し、彼らが国際的な知名度を獲得し始めるのと平行し、同国は1990年代の分裂へと向かっていった。
 旧ユーゴスラビアは、1991年から1992年にかけ、それまで連邦を形成していた六つの共和国のうち、スロベニア、クロアチア、マケドニア(現、北マケドニア共和国)が独立した。翌1993年ボスニア・ヘルツェゴビナも続いたが、民族紛争を誘発し、内戦はクロアチアにも拡大した。ボスニア・ヘルツェゴビナおよびクロアチアの両国とも混乱の傷は深く、現在なお各国の映画の重要な題材となっている。一方、経済的な混乱によりそれまでの映画製作体制は崩壊、アメリカ映画が氾濫(はんらん)したが、西欧諸国は合作の手を差し伸べ、製作体制も1990年代後半には、しだいに安定してきた。各国は独自の活動をし始めたものの、西欧との合作に頼る状況は共通しており、映画人の互いの行き来も多く、チトー時代の批判的回想、内戦の記憶、混乱する現代社会を題材とした悲喜劇などの映画の代表的傾向や映画状況の進展ぶりにも共通性が多い。
 1995年、紛争中包囲攻撃を受けていたボスニア・ヘルツェゴビナのサライエボで37本の映画を集めた映画祭が開催され、戦火のなかで多くの人々を楽しませた。この映画祭は現在ではバルカン半島最大級の映画祭となったが、これをきっかけに旧ユーゴ各国が国際映画祭を開催するようになった。その後2006年にはモンテネグロも独立を宣言した。[出口丈人]

スロベニア

長編5本、短編20本という旧ユーゴスラビア時代に連邦としてスロベニア映画が分担していた年間製作本数が、市場の狭まりとともに独立以後は半減した。1994年から映画に関する法や助成制度、フィルム・アーカイブなどが整備され始めた。1995年から2000年までの間に、長編40本、短編26本、ドキュメンタリー6本、アニメーション12本がつくられ、九つのビデオ・プロジェクトが実現した。ボスジャン・フラドニクBotjan Hladnik(1929―2006)やカルポ・コディナKarpo Godina(1943― )などのベテランの後から、Janez Burger(1965― )の『Idle Running(アイドル・ランニング)』(1999)が新しい作風で道を切り開き、ヴィーコ・アセルジェクVojko Anzeljc(1970― )の『Zadnja veerja(最後の晩餐(ばんさん))』(2001)、ヤン・スヴィツコヴィッチJan Cvitkovi(1966― )の『Kruh in mleko(パンとミルク)』(2001)、スロベニア初の女性監督マヤ・ヴィースMaja Weiss(1965― )の『Varuh meje(管区管理人)』(2002)ら新鋭の注目作が続出している。
 なおスロベニアで撮影され、米アカデミー外国語映画賞を獲得した『ノー・マンズ・ランド』(2001)は、監督ダニス・タノヴィッチDanis Tanovi(1969― )がボスニア・ヘルツェゴビナ出身の人だが、出資は、イタリア、イギリス、ベルギー、フランス、スロベニアの共同作品となっている。映画館数は85(1999)。[出口丈人]

クロアチア

クロアチア映画は、旧ユーゴスラビア時代からとくにアニメーションでドゥシャン・ブコチッチDuan Vukoti(1927―1999/モンテネグロ出身)らのザグレブ・スタジオが伝統的に優れた作品を送り出してきた。内戦中は、劇映画製作が1、2本というところまで落ち込んだ。監督兼製作者のスロボダン・プラリャクSlobodan Praljak(1945―2017)は内戦中将軍となり、戦後も防衛省にとどまったが、ベテランのズヴォニミール・ベルコヴィッチZvonimir Berkovi (1928―2009)、ボグダン・ジジッチBogdan ii(1934― )、ヴァロスラフ・ミミカVatroslav Mimica(1923― )らを中心に立て直しが図られた。内戦後に公開された映画では、内戦中に女性たちが受けた被害を描くドキュメンタリー映画『コーリング・ザ・ゴースト――沈黙を破ったボスニア女性たち』(1996)が日本でも公開された。21世紀に入って『Konjanik(騎手)』(2003)のブランコ・イヴァンダBranko Ivanda(1941― )、『Duga mracna noc(長く暗い夜)』(2004)のアントン・ブルトルヤクAntun Vrdoljak(1931― )、『Kraljica noci(夜の女王)』(2001)のブランコ・シュミットBranko Schmidt(1957― )、『Sto je Iva snimila(イヴァの記録したこと)』(2005)のトミスラフ・ラディックTomislav Radic(1940―2015)、『Ta divna Splitska noc(驚くべきスプリツカの夜)』(2004)のアルセン・アントン・オストジックArsen-Anton Ostojic(1965― )らの新鋭が登場し話題を集めているが、日本では紹介されていない。2003年からドブロブニク国際映画祭が開催されている。長編映画の製作本数は年間6本、映画館数は141(1999)。[出口丈人]

ボスニア・ヘルツェゴビナ

サライエボ生まれのクストリッツァらが旧ユーゴスラビア映画で活躍していた連邦時代には16あった映画製作会社が、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の影響で4に減り、映画人も四散した。映画館は破壊され、約1年間映画が上映されない時期もあった。1993年にビデオ投影による上映を経て、1994年にようやく上映館が再開された。1995年、包囲されたなかでサラエボ(サライエボ)映画祭が開かれた。記憶も生々しい紛争を題材にしたドキュメンタリー映画から、日本でも公開されたアデミル・ケノヴィッチAdemir Kenovi(1950― )の『パーフェクト・サークル』(1997)などの劇映画がつくられた。
 2001年には前述したようにボスニア人のダニス・タノヴィッチが『ノー・マンズ・ランド』でアカデミー外国語映画賞を受賞した。2006年のベルリン国際映画祭ではヤスミラ・ジュバニッチJasmila Zbani(1974― )の作品『Grvavica(サラエボの花)』がグランプリを獲得した。内戦下、サライエボのグルバビッツァ地区で起きたセルビア人兵士によるボスニア女性への組織的なレイプ事件を背景に、忌まわしい過去を娘に知られまいとするイスラム教徒の母親とその娘の葛藤を描いた作品である。またフランスの女優ジャンヌ・モローらが出演し、同性愛者のカップルを通して、民族など異質なものをどう受け入れるかを訴える、アフメド・イマモヴィッチAhmed Imamovi(1971― )の『Idemo Na Zapad(西へ行け)』(2005)のほか、ネジェト・ベコヴィッチNedad Begovi(1958― )、ヤスミン・ドゥラコヴィッチJasmin Durakovi(1966― )、レフィク・ホジッチRefik Hodzic、ファルク・ロンカレヴィッチFaruk Lonarevi(1975― )らの新鋭が活躍し始めている。
 ネナド・ジューリッチNenad Djuriの『空からの贈りもの』(2006)はボスニア・ヘルツェゴビナで初めてのデジタル・シネマ作品として製作された。タノヴィッチは次の『美しき運命の傷痕』(2005)では完全にボスニアから離れたところで映画をつくった。国外で活動する映画人には、ほかにも、イギリスで『ビューティフル・ピープル』(1999)を発表したジャスミン・ディズダー(ヤスミン・ディズダール)Jasmin Dizder(1961― )らがいる。[出口丈人]

セルビアとモンテネグロ

ユーゴ紛争の主戦場ではなかったため、1990年代中ごろには映画製作状況は年間5本から10本というところまで回復した。旧ユーゴスラビア時代から活躍する監督も紛争の混乱期を通じ、この国で映画をつくってきた。マカベーイェフの『ゴリラは真昼、入浴す。』(1993)や、サライエボ生まれのクストリッツァがベオグラードを舞台に製作した『アンダーグラウンド』(1995)や『黒猫・白猫』(1998)などの作品は国際的に高く評価された。新世代には日本でも公開された『ブコバルに手紙は届かない』(1994)のボーロ・ドラシュコヴィッチBoro Draskovi(1935― )や『ボスニア』(1996)のスルジャン・ドラゴエヴィッチSrjdan Dragojevi(1963― )らがいる。日本未公開作品ではゴラン・マルコヴィッチGoran Markovi(1946― )の『おどけた悲劇』(1995)がある。また、クストリッツァはパリに拠点を移したが、『SUPER 8』(2001)、『ライフ・イズ・ミラクル』(2004)などを発表した。ドラゴエヴィッチも『Rane(傷)』(1998)を発表している。長編映画の製作数は年間10本、映画館数は164、年間の観客動員数は526万人(1998)。なおモンテネグロは2006年に独立を宣言し、映画も独自の歩みを始めた。[出口丈人]

マケドニア(現、北マケドニア)

マケドニア映画は小さな市場のため製作は思うにまかせない。現代のマケドニアとロンドンを舞台にした三つのラブストーリーを交錯させたオムニバス『ビフォア・ザ・レイン』(1994)が日本でも公開された。この映画の監督のミルチョ・マンチェフスキーMilo Manevski(1959― )のように外国に活動の基盤をもち、合作を経験した映画人は国際的に知られているが、それ以外は作品・作家とも知られる機会が少ない。2004年の東京国際映画祭では、独立直後のマケドニアで、まじめな少年が劣悪な環境のなかで少しずつ変わっていくというストーリーの『ミラージュ』(監督ズベトザル・リストフスキSvetozar Ristovski、1972― )が紹介された。アレクサンドル・ポポフスキAleksandar Popovski(1969― )とダルコ・ミトレフスキDarko Mitrevski(1971― )の『グッバイ20世紀』(1998)、話題の戯曲を映画化したゴラン・パスカジェヴィッチGoran Paskaljevi(1947― )の『パウダー・ケグ』(1998)などに続き、マンチェフスキーもやはり合作で『ダスト』(2001)を発表した。21世紀に入ってからの新人の作品ではダルコ・ミトレフスキの『Bal-Can-Can(バル・カン・カン)』(2005)が評判となった。映画館数は40、年間の観客動員数は27万8000人(1996)。[出口丈人]

ブルガリア

ブルガリア映画では劇映画の先駆者にヴァシル・ゲンドフVasil Gendov(1891―1970)があげられるが、ブルガリアの映画製作体制が整備されるのは1948年の国営化以後のことである。一つの劇映画撮影所と四つの短編映画撮影所ができ、ランゲル・ブルチャノフRangel Vulchanov(1928―2013)の『小さな島で』(1958)、ヴァロ・ラデフVulo Radev(1923―2001)の『桃泥棒』(1964)などをきっかけに国際的な場に進出した。内容は歴史から現代社会まで多岐にわたっているが、政治的問題を強く打ち出すよりも、現実的生活描写のなかにそれとなく漂わせる落ち着いた作風が多い。日本でも公開された『炎のマリア』(1972)のメトーディー・アンドノフMethodi Andonov(1932―1974)のほか、フリスト・フリストフHristo Hristov(Christo Christov。1926―2007)、イヴァン・テルジェフIvan Terziev(1934― )、アニメーションのドンヨ・ドネフDonyo Donev(1929―2007)らがその後に続いた。日本では、その後イヴァン・ニチェフIvan Nitchev(1940― )の『ぼくと彼女のために』(1988)、リュドル・スタイコフLudmil Staikov(1937― )の『略奪の大地』(1988)、ボリスラフ・パンチェフBorislav Punchev(1928―1998)の『脱走兵救出作戦』(1989)などが公開されている。1990年代以降の不安定な経済状況のなかでおもにフランス、イタリアとの合作が増え、新世代も登場している。ニコライ・ヴォレフNikolai Volev(1946― )は、1994年にメトーディー・アンドノフの『山羊の角』のリメイクを発表した。1993年に新著作権法が発効し、製作者、監督らが保護されるようになった。1990年に2500あった映画館は191に激減し、長編映画の製作本数は年間6本、年間の観客動員数は192万人(1999)。[出口丈人]

ルーマニア

第二次世界大戦前は映画監督のルプ・ピックLupu Pick(1886―1931)、俳優のエルヴィール・ポペスコElvire Popesco(1894―1993)を外国に送り出したほかはみるべきものがなかった。1948年に映画産業の国営化が行われ、1952年にはブクレシュティ(ブカレスト)郊外のブフテアに撮影所もつくられた。ルーマニア映画の特色は、スペクタクル好みとともに、伝統的に文学との結び付きが強く、映像よりも台詞(せりふ)に重点が置かれる。解放とか独立など公式的テーマから脱しても標準的な文芸や歴史ものが多い。日本では1970年代にセルジウ・ニコラエスクSergiu Nicolaescu(1930―2013)の『虐殺軍団』(1970)、ダン・ピツアDan Pia(1938― )の『炎の一族』(1975)が初めて紹介された。
 チャウシェスク政権が倒れ、民主化された1989年12月を境に、ルーマニア映画は転機を迎え、以前から活躍していた監督ルチアン・ピンティリエLucian Pintilie(1933―2018)やナエ・カランフィルNae Caranfil(1960― )らに続き、フランスなどとの共同製作を通し、ミルチャ・ダネリウツMircea Daneliuc(1943― )が、『婚姻の床』(1993)、『議員たちのカタツムリ』(1995)で共産主義後の病んだ社会の混乱を風刺的に描き、西欧に知られるようになった。
 2000年以降、クリスティアン・ムンジウCristian Mungiu(1968― )をはじめとして、ラドュ・ムンテアンRadu Muntean(1971― )、カタリン・ミトゥレスクCatalin Mitulescu(1972― )、コルネリウ・ポルンボユCorneliu Porumboiu(1975― )、ニコラス・マッソンNicolas Masson(1973― )、リュクサンドラ・ゼニードRuxandra Zenide(1975― )、クリスティ・プユーCristi Puiu(1967― )ら30代の監督が次々に登場し国際的に大きな注目を集めるに至った。
 とくにカンヌ国際映画祭では、2005年ある視点部門の大賞を受賞したクリスティ・プユーの『ラザレスコ氏の死』、2006年のカメラドール(新人賞)に輝いたコルネリウ・ポルンボユの『12:08 East of Bucharest(ブカレストの東、12時8分)』に続き、2007年にはクリスティアン・ムンジウの『4ヶ月、3週と2日』がグランプリを獲得。ある視点部門でも編集作業のさなか、交通事故で急死し、未完成のままに終わったクリスティアン・ネメスクCristian Nemescu(1979―2006)の『カリフォルニア・ドリーミン』が大賞に輝いた。2002年からトランシルバニア国際映画祭が開催されている。長編映画の製作本数は年間12本、映画館数は331、年間の観客動員数は419万人(1999)。[出口丈人]

アルバニア

初めて撮影所がつくられたのが1952年で、旧ソ連の支援で製作が始まった。それ以降のアルバニア映画の総製作本数は200本程度であり、半鎖国状態を長く続けてきたために、他国との文化交流も、映画が外国に知られることもほとんどない。『タナ』(1957~1958)、『畝(うね)』(1973)など初期からの巨匠クリスタク・ダーモKristaq Daamo(1933― )のほか、ジミテル・アナグノスティDhimiter Anagnosti(1936― )、フュセン・ハカニHysen Hakani(1932―2011)らの監督がいる。ファシスト・イタリアやオスマン・トルコなどの外国勢力への抵抗を題材として、反革命勢力と戦う内容の作品が多い。2001年東京国際映画祭で、ジェルジ・ジュヴァニGjergj Xhuvani(1963― )の『スローガン』がアルバニア映画として日本で初めて紹介され、東京グランプリを受賞した。ジュヴァニは続いて日本も支援した『羊の啼(な)き声』(2004)を発表した。ほかに1996年のモントリオール世界映画祭において『死亡者名簿』(1994)で特別賞を受賞したファトミル・コツィFatmir Koi(1959― )の『ティラナ零年』(2001)が日本でもテレビで放映されている。映画館数は108、年間の観客動員数は330万人(1990)。[出口丈人]
『アドラン・トリノン著、金子恵一訳『現代のシネマ6 ワイダ』(1970・三一書房) ▽『世界の映画作家34 ドイツ・北欧・ポーランド映画史』(1977・キネマ旬報社) ▽ボレスワフ・ミハウェック著、今泉幸子・進藤照光訳『静かなる炎の男 アンジェイ・ワイダの映画』(1984・フィルムアート社) ▽野田真吉著『映像――黄昏を暁と呼びうるか』(1991・泰流社) ▽ヴァンダ・ヴェルテンシュタイン編、工藤幸雄・久山宏一・つかだみちこ・渡辺克義訳『アンジェイ・ワイダ自作を語る』(2000・平凡社) ▽マレク・ハルトフ著、西野常夫・渡辺克義訳『ポーランド映画史』(2006・凱風社)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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