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松平容保【まつだいら かたもり】

美術人名辞典

松平容保
幕末・維新期の会津藩藩主。肥後守。号は祐堂・芳山・翠柳。美濃高須城主松平義建の子、会津藩主松平容敬の養子京都守護職に任命され、京都の治安維持と公武合体の実現に努めた。徳川慶喜大政奉還に反対し、武装するが鳥羽伏見の戦い敗北、会津で官軍降伏後因幡に幽囚された。謹慎を解かれてのちは正三位に叙され、日光東照宮宮司をつとめた。明治26年(1893)歿、59才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

まつだいら‐かたもり〔まつだひら‐〕【松平容保】
[1836~1893]幕末会津藩主。京都守護職となって公武合体に尽力し、尊攘急進派の長州藩を一掃したが、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ逃れた。会津戦争で討幕軍に抗戦したが降伏、のち許されて日光東照宮宮司となった。

出典:小学館
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

松平容保 まつだいら-かたもり
1836*-1893 幕末の大名。
天保(てんぽう)6年12月29日生まれ。美濃(みの)(岐阜県)高須藩主松平義建(よしたつ)の6男。松平容敬(かたたか)の養子となり,嘉永(かえい)5年陸奥(むつ)会津(あいづ)藩(福島県)藩主松平(保科)家9代。文久2年京都守護職につき,公武合体を推進。会津戦争に敗れ,明治元年鳥取藩のち和歌山藩に永預(えいあずけ)となる。13年日光東照宮宮司。明治26年12月5日死去。59歳。通称は銈之允。号は祐堂,芳山。肥後守(ひごのかみ)。
【格言など】幾人の涙は石にそそぐともその名は世々に朽じとぞ思ふ(会津戦争で戦死した藩士への追慕の歌)

出典:講談社
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防府市歴史用語集

松平容保
幕末の会津藩[あいづはん]の藩主。京都の警備を担当する京都守護職[きょうとしゅごしょく]をつとめ長州藩とは対立しました。戊辰戦争[ぼしんせんそう]では新政府軍と戦って敗れました。

出典:ほうふWeb歴史館
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世界大百科事典 第2版

まつだいらかたもり【松平容保】
1835‐93(天保6‐明治26)
江戸末期の大名。会津藩主。美濃高須藩松平義建の子。会津藩主松平容敬の養子となり,1852年(嘉永5)襲封。62年(文久2)京都守護職に就任後,孝明天皇の信任をうけ,一橋慶喜とともに公武合体に尽力。〈文久3年8月18日の政変〉では薩摩藩と結んで攘夷親征を計画した尊攘派を京都より追放,弟の所司代松平定敬と京都の治安を確保した。王政復古後,鳥羽・伏見の戦に出兵したが敗れ,会津へ帰り謹慎した。【羽賀 祥二】

出典:株式会社平凡社
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

松平容保
まつだいらかたもり
[生]天保6(1835).12.29. 江戸
[没]1893.12.5. 東京
幕末の会津藩主。美濃高須城主松平義建の子。字はけい之允。号は祐堂,芳山。弘化3 (1846) 年会津藩主松平容敬の養子となり,嘉永5 (52) 年襲封。同6年ペリー来航に際して井伊直弼とともに国書受理に賛成し,安政7 (60) 年桜田門外の変で直弼が横死すると,幕府と水戸藩との調停にあたった。また幕府の命により松平慶永とともに幕政に参与し,次いで京都守護職。元治1 (64) 年の禁門の変において長州藩兵と戦い,これを撃退した。慶応4 (68) 年鳥羽・伏見の敗戦ののち,江戸に帰った。その後,奥羽越列藩同盟の中心となったが,会津戦争で敗れた。 1880年東照宮宮司。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

松平容保
まつだいらかたもり
(1835―1893)

幕末の会津藩主。号は祐堂、芳山。若狭守(わかさのかみ)、肥後守となる。美濃国(みののくに)(岐阜県)高須(たかす)藩主松平義建の六男に生まれ、会津藩主松平容敬(かたたか)の養子となり、1852年(嘉永5)襲封した。公武合体論を唱え、1862年(文久2)の幕政改革で幕政参与となり、新設された京都守護職に就任し、尊王攘夷(じょうい)運動が熾烈(しれつ)になった京都の治安維持にあたり、尊王攘夷派志士弾圧の指揮をとった。1863年の八月十八日の政変では、中川宮(なかがわのみや)や薩摩(さつま)藩らと協力して長州藩などの尊攘派勢力を追放し、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)、松平慶永(よしなが)、山内豊信(やまうちとよしげ)、伊達宗城(だてむねなり)、島津久光(しまづひさみつ)とともに参与として朝政に参画し、公武合体策による国政挽回(ばんかい)を図ったが、内部対立のために失敗した。1864年(元治1)、これを好機として禁門(きんもん)の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)を起こした長州藩を、薩摩・桑名藩とともに撃退し、長州征伐には陸軍総裁職、のち軍事総裁職につき、また京都守護職に復した。その後、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)と協力して条約勅許問題などで活躍したが、1867年(慶応3)薩長両藩の画策が功を奏し、容保誅戮(ちゅうりく)の宣旨(せんじ)が出され、大政奉還後、慶喜とともに大坂に退去し、鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いに敗れて海路、江戸へ逃れた。慶喜に再挙を説いたがいれられず、会津で奥羽越(おううえつ)列藩同盟の中心となり、東北・北越に兵を展開し、籠城(ろうじょう)のうえ降伏、鳥取藩のち和歌山藩に永預(ながあず)けの処分を受けた。1872年(明治5)許され、1880年には東照宮宮司となった。明治26年12月5日没。

[井上勝生]

『手代木勝任・柴太一朗述『松平容保公伝』(『会津藩庁記録』所収・1926・日本史籍協会/復刻版・1982・東京大学出版会)』『山川浩著、遠山茂樹校注『京都守護職始末』全2巻(平凡社・東洋文庫)』

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精選版 日本国語大辞典

まつだいら‐かたもり【松平容保】
幕末の大名。会津藩主。桜田門外の変後、江戸に出て幕政参与。京都守護職となって公武合体を推進。禁門の変には長州藩兵を撃退。大政奉還後、徳川慶喜とともに大坂に下り、鳥羽・伏見の戦に敗れて江戸にのがれた。会津戦争に佐幕派奥羽越列藩同盟の中心となって戦ったが、敗れた。天保六~明治二六年(一八三五‐九三

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旺文社日本史事典 三訂版

松平容保
まつだいらかたもり
1835〜93
幕末の会津藩主
1852年襲封。'62年幕政改革で京都守護職となり,会津藩兵を率い,八月十八日の政変禁門の変で尊王攘夷派を京都から一掃,長州藩の反撃を退けるなど公武合体派の重鎮として活動した。'68年鳥羽・伏見の戦いに敗れ,会津に帰国。奥羽越列藩同盟の中心として会津若松城で抗戦したが降伏。のち許され日光東照宮宮司となる。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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