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板垣退助【いたがき たいすけ】

美術人名辞典

板垣退助
政治家。土佐生。高知士栄六正成の長男。名は正形。幕末期に討幕派に投じ、戊辰戦争に参加、のち明治維新政府の参議となる。また自由民権運動のさきがけとなり、自由党総理を務める。第一次大隈内閣内相就任後、晩年は社会事業に尽力した。大正8年(1919)歿、83才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

いたがき‐たいすけ【板垣退助】
[1837~1919]政治家土佐の人。愛国公党結成民撰議院設立建白書提出、また土佐に立志社をつくり自由民権運動を指導した。明治14年(1881)自由党を結成。同31年、大隈重信と日本最初の政党内閣を組織、内相となった。

出典:小学館
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

板垣退助 いたがき-たいすけ
1837-1919 幕末-明治時代の政治家。
天保(てんぽう)8年4月17日生まれ。土佐高知藩士。戊辰(ぼしん)戦争で総督府参謀をつとめ,明治4年新政府の参議となる。6年征韓論をめぐって大久保利通らと対立し,西郷隆盛らとともに辞職。翌年民選議院設立建白書を提出。帰郷して立志社をおこし,自由民権運動を指導した。14年自由党を結成して総理。24年再結成された自由党の総理。29年第2次伊藤内閣の内相。31年大隈(おおくま)重信と隈板(わいはん)内閣をつくり,内相。伯爵。33年政界を引退し,社会改良運動につくした。大正8年7月16日死去。83歳。初姓は乾(いぬい)。
【格言など】われ死すとも,自由は死せず(明治15年,刺客に斬りつけられて)

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

いたがきたいすけ【板垣退助】
1837‐1919(天保8‐大正8)
幕末・明治期の政治家。土佐藩出身。旧姓乾(いぬい)。名は正形,退助は通称。1861年(文久1)江戸藩邸詰となり,ついで山内容堂の側用役などをつとめた。討幕運動を推進。戊辰戦争に東山道先鋒総督府参謀として従軍し,会津攻略を指揮した。維新後は藩の大参事を経て,71年(明治4)新政府の参議に就任。73年10月征韓論をめぐって大久保利通らと対立し,西郷隆盛らとともに辞職。翌年1月ともに下野した江藤新平,後藤象二郎,副島種臣(そえじまたねおみ)らと民撰議院設立建白書を政府に提出し,自由民権運動展開の契機をつくった。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

大辞林 第三版

いたがきたいすけ【板垣退助】
1837~1919 政治家。土佐の人。討幕運動に参加。維新後参議となったが、征韓論を主張し、敗れて下野。民撰議院設立建白書を提出するなど自由民権運動を指導し、1881年(明治14)自由党を結成。第二次伊藤内閣・第一次大隈内閣の内相。

出典:三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

板垣退助
いたがきたいすけ
[生]天保8(1837).4.17. 土佐
[没]1919.7.16. 東京
自由民権運動の指導者。伯爵。土佐藩主山内容堂を補佐して明治維新に参画。 1874年「民撰議院設立建白書」を提出し,藩閥政治を攻撃,自由民権論を主張した。 81年自由党を創設。 82年岐阜に遊説の際,刺され「板垣死すとも自由は死せず」と絶叫したと伝えられる。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

板垣退助
いたがきたいすけ
(1837―1919)
明治の政治家。天保(てんぽう)8年4月17日、土佐藩馬廻役(うままわりやく)乾栄六正成(いぬいえいろくまさなり)の長男として城下中島町に生まれる。幼名猪之助(いのすけ)、のち退助と改める。諱(いみな)は正形(まさかた)、無形と号す。1854年(安政1)12月江戸勤番を命じられたが、1856年帰藩。1860年3月父病没のため家督を相続、220石馬廻役となる。1861年(文久1)10月御納戸方(おなんどかた)となり江戸留守ならびに御内用役(おそばようやく)を命じられる。1862年には山内容堂の御側用役となる。このころから攘夷(じょうい)論を唱え始めたが、武市瑞山(たけちずいざん)らの急進的な勤王党とは対立し、1865年(慶応1)には後藤象二郎(ごとうしょうじろう)らとともに藩庁の大監察として武市ら勤王党員のおもだった者を糾問し処刑した。1867年5月、江戸からの帰藩の途中に京都で、中岡慎太郎の仲介で西郷隆盛(さいごうたかもり)と会見して薩土(さつど)討幕同盟を確約し、帰藩後挙兵の準備にとりかかった。
 1868年(慶応4)1月戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まるや、板垣は大隊司令として軍夫まで含めると1045人の土佐藩兵迅衝隊(じんしょうたい)を率いて13日に高知を出発し、川之江、丸亀、高松諸藩を追討し、28日に京都に到着した。そしてただちに東山道先鋒(せんぽう)総督府参謀となり、600の藩兵を率いて出陣した。板垣退助と名のったのはこのときからである。大垣、信州、甲府、八王子、宇都宮、若松、会津を追討して11月に帰藩。1869年(明治2)藩の大参事として藩政改革を行い、1871年新政府の参議に任ぜられる。1873年10月に西郷らと征韓論を主張して敗れて参議を辞した。1874年1月には後藤象二郎らと愛国公党を組織して民撰(みんせん)議院設立建白書を政府に提出し、自由民権運動に乗り出した。1875年3月ふたたび政府参議となったが、議あわず10月には辞職した。その後は自由民権運動に挺身(ていしん)し、1881年10月結党の自由党総理に推され、1882年4月には遊説中の岐阜で凶変にあった。この年11月から翌年6月まで欧州を視察。帰国前後から自由党解散の意向をもち始め、1884年10月には自由党幹部と合議のうえ、ついに自由党解散を行った。1887年5月伯爵に叙せられ、再三固辞したが許されず、7月に叙爵。同年8月には国会開設、言論自由、民力休養、海軍拡張、条約改正などに関する意見書を天皇に上奏し、高知に引きこもった。
 大同団結運動の首唱者後藤象二郎が1889年(明治22)3月に突如黒田清隆(くろだきよたか)内閣に入閣するに及んで、入閣賛成派と反対派が激しく対立して大同団結運動が分裂状態に陥ったとき、板垣は後藤や河野広中(こうのひろなか)に説得されて上京し、1890年5月に愛国公党を組織して大同派の団結を図った。同年9月には板垣らの努力で愛国公党、自由党、大同倶楽部(くらぶ)は合同し、立憲自由党を結党して民力休養、政費節減を掲げて政府攻撃に乗り出したが、板垣は第一議会開会中の1891年2月、土佐派議員が政府に買収された責任を感じて離党した。3月には復党して党総理となり、1895年には伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣との協力関係を進めて1896年4月内務大臣となる。9月に内相を辞して党活動に専念し、1898年憲政党内閣のもとでふたたび内務大臣となったが10月に辞職した。その後政治活動から身を引いて社会問題に専心して風俗改良会を組織し、機関誌『友愛』を創刊した。1907年(明治40)には『一代華族論』を公表したりしたが、大正8年7月16日死去。享年83歳。従(じゅ)一位に叙せられる。[後藤 靖]
『絲屋寿雄著『史伝板垣退助』(1974・清水書院) ▽平尾道雄著『無形板垣退助』(1975・高知新聞社)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

いたがき‐たいすけ【板垣退助】
政治家。旧姓、乾(いぬい)。土佐藩出身。幕末、討幕運動を推進。維新後、参議となったが征韓論を主張して辞職。愛国公党を結成して民選議院設立建白書を提出する。以後自由民権運動を指導して自由党を創設。のち、立憲自由党を組織し内相となる。天保八~大正八年(一八三七‐一九一九

出典:精選版 日本国語大辞典
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旺文社日本史事典 三訂版

板垣退助
いたがきたいすけ
1837〜1919
明治時代の政治家
土佐藩出身。討幕運動に参加。1871年参議となったが,'73年征韓論に敗れて下野。後藤象二郎らと民撰議院設立建白書を提出し,自由民権運動の口火を切った。以後立志社・愛国社を結成。'81年自由党総理,'90年立憲自由党総裁となり,のち第2次伊藤博文・隈板 (わいはん) 両内閣の内相を歴任。1900年立憲政友会成立を機に政界を退き,以後社会事業に尽くした。持論の「華族一代論」を実現したことは彼の面目を示している。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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