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栄西【えいさい】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

栄西
えいさい
[生]保延7(1141).4.20. 備中,吉備津
[没]建保3(1215).6.5. 鎌倉
日本臨済宗の開祖。号を葉上房,字を明庵という。初め比叡山に登り天台の教学を修めたがあきたらず,仁安2 (1167) 年伯耆大山の基好のもとで勉学中唐本『法華経』に接して入宋の決意を固め,翌年4月入宋。天台山,阿育王山を歴訪し,禅に対する理解と興味を示し,中国天台宗に関する注釈書などを持って帰朝。以後天台の復興に禅の必要性を痛感し,文治3 (87) 年再び入宋。天台山で臨済禅を学び建久2 (91) 年帰国。筑前誓願寺において布教活動を始め,正治1 (99) 年鎌倉に入り,のちに将軍頼家の帰依を受け寿福寺を創立,建仁2 (1202) 年京都建仁寺を造立し,以後京都,鎌倉の間を往復して禅の弘通に努めた。建永1 (06) 年東大寺の重源のあとをうけて東大寺大仏の再建に尽力した。治承2 (1178) 年の筑前誓願寺の『誓願寺盂蘭盆一品経縁起』は栄西の遺品として名高く,その書風は風様式を示している。また茶の種子を宋から持帰り,日本に喫茶の習慣を広めた。著書に『興禅護国論』『一代経論釈』『喫茶養生記』などがある。弟子に釈円栄朝 (しゃくえんえいちょう) ,退耕行勇 (たいこうぎょうゆう) らが輩出した。

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デジタル大辞泉

えいさい【栄西】
[1141~1215]平安末・鎌倉初期の備中(びっちゅう)の人。字(あざな)は明庵。日本臨済宗。はじめ比叡山で天台密教を学んだ。二度宋(そう)に渡ってを学び、帰国後、博多に聖福寺、京都に建仁寺、鎌倉に寿福寺建立。また、宋から茶の種を持ち帰り、栽培法を広めた。著「興禅護国論」「喫茶養生記」など。千光国師葉上房。ようさい。

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編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
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ようさい〔ヤウサイ〕【栄西】

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世界大百科事典 第2版

えいさい【栄西】
1141‐1215(永治1‐建保3)
〈ようさい〉とも読む。鎌倉初期に臨済宗を伝えた禅密兼修の僧侶。道号は明庵(みようあん∥みんなん)。葉上房(ようじようぼう),千光法師ともいう。備中国吉備津神社の神官賀陽(かや)氏の出身。8歳から父に仏典学習の手ほどきをうけ,11歳で付近の安養寺の静心に師事した。比叡山で受戒したのは14歳。静心の死後,密教を千命に,天台教学を有弁に学んだ。21~22歳ころ比叡山を離れ,備前国日応山など山林霊場で密教的苦行を重ね,その後,伯耆国大山寺の基好や比叡山の顕意より台密穴太流の灌頂(かんぢよう)をうけた。

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ようさい【栄西】

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大辞林 第三版

えいさい【栄西】
ようさいとも 1141~1215 鎌倉初期の禅僧。日本の臨済宗の開祖。備中の人。字あざなは明庵。葉上房・千光国師と号す。比叡山で天台の教義を学び、二度入宋し、臨済禅を伝え帰る。幕府の帰依をうけ鎌倉に寿福寺を建立。京に建仁寺を創建して天台・真言・禅の三宗兼学の道場とし禅宗の拡大に努めた。また、茶を宋より移入し「喫茶養生記」を著した。著「興禅護国論」など。

出典:三省堂
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ようさい【栄西】
えいさい栄西

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日本大百科全書(ニッポニカ)

栄西
えいさい
(1141―1215)
鎌倉時代の僧。日本臨済(りんざい)宗の開祖とされる。台密(たいみつ)(天台密教)葉上(ようじょう)流の祖。「ようさい」ともいう。葉上房(ようじょうぼう)、千光(せんこう)国師、智金剛と称し、禅宗の字(あざな)は明庵(みょうあん)[多賀宗隼]

生涯・業績

備中(びっちゅう)(岡山県)の吉備津(きびつ)神社の神職賀陽(かや)氏の出身。保延(ほうえん)7年4月20日(一説に25日)生まれる。1151年(仁平1)仏道を志して比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)に入り密教を学んだ。1162年(応保2)いったん帰郷して修行したのち、ふたたび叡山に入って灌頂(かんじょう)を受けた。この間、静心(じょうしん)(?―1157)、千命(せんめい)、有弁(ゆうべん)、基好(きこう)、顕意(けんい)に師事した。早くから日本の仏法の興隆を深く願ったが、とくに大陸仏法の学習に期待して入宋求法(にっそうぐほう)の志を抱き、1167年(仁安2)27歳にして九州に赴き、翌1168年渡宋した。この行については平頼盛(たいらのよりもり)の外護(げご)があったとも伝えられる。宋において、栄西は初め天台山、阿育王(あいくおう)山などに学び、また禅の要旨を問い、滞在6か月に及んで同年帰国したが、その間に俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)と面識を得た。帰朝後、叡山に大陸から将来した章疏(しょうそ)を納め、ついで故郷方面で6年間巡錫(じゅんしゃく)した。1175年(安元1)ころ、ふたたび九州に赴き、筑前(ちくぜん)(福岡県)今津の誓願寺(せいがんじ)などに滞在すること10年に及んだ。この間、大陸に求めた一切経(いっさいきょう)の到来を待ちつつ、密教と禅の研究に努めた。とくに、天台密教を大成した安然(あんねん)に注目していることがこのころ成った約10部の著述に示されている。1187年(文治3)47歳で第2回目の入宋を実現した。このときは仏跡巡礼を志したが宋の朝廷に許されず、瑞安(ずいあん)を経て天台山に入り、万年寺で虚庵懐敞(こあんえしょう)(生没年不詳)に師事し、師に随(したが)って天童山に移って臨済宗黄龍派(おうりゅうは)の禅を受けた。日本の入宋僧のなかで直接にこの派を受けたのは栄西のみである。またこのとき、栄西は懐敞に密教を伝えたという。
 1191年(建久2)に帰国し、肥前(ひぜん)(長崎県)平戸を経て九州各地に弘法(ぐほう)し、禅寺の建立、禅規の興行、経論の書写などに努めた。そのおり、宋よりもたらした茶種を筑前、肥前の境にある脊振山(せふりやま)に植えたが、それが日本の茶の栽培、普及の発祥地とされている。1194年(建久5)布教のために上京、『興禅護国論(こうぜんごこくろん)』の起稿はこの途上のこととの説もある。このころ、都ではすでに覚阿(かくあ)、大日能忍(だいにちのうにん)らが「達磨宗(だるましゅう)」を説いて禅を鼓吹しており、その新奇の教えが世人の視聴をそばだてていたが、叡山の衆徒はその布教に妨害を加えた。栄西の教えもこれとともに叡山の圧迫を受け、停止(ちょうじ)の宣旨(せんじ)が出されたため、栄西はいったん九州に下向した。博多(はかた)に安国山聖福寺(しょうふくじ)を建てたのはこのときであるが、これはのちに建立された京都の建仁寺(けんにんじ)、鎌倉の寿福寺(じゅふくじ)とともに、栄西が今日に残した禅宗の大伽藍(がらん)である。同年ふたたび上洛(じょうらく)したが、世人の誤解と旧勢力の圧力とに対する覚悟と準備を新たにしている。新たに著した『興禅護国論』の所論の一半でも叡山の攻撃に備えており、栄西の禅が最澄(さいちょう)所伝の禅の伝統を今日に生かすものであることを述べている。しかし、これと並行して彼は朝廷内部に了解と支持とを求めた跡がみられる。1198年(建久9)『興禅護国論』を著した栄西は、無用の摩擦を避けて、翌1199年、一時、都を去って鎌倉に布教の新天地を求めた。入宋の経歴をもつ京下りの栄西は、たちまち将軍、幕府の歓迎を受けて祈祷(きとう)を依嘱(いしょく)され、1202年(建仁2)には北条政子(ほうじょうまさこ)は栄西のために寿福寺を建てて住持せしめた。ここに至ってふたたび上京し、将軍源頼家(みなもとのよりいえ)の外護のもとに建仁寺を建てた。朝廷もまたこれを官寺に列したと伝える。栄西が建仁寺を真言(しんごん)、止観(しかん)、禅の三教の道場としたのは、旧勢力との調和を意図したものと思われるが、ここに臨済宗は京都と鎌倉を強固な地盤として日本の新しい一大宗派として発足し、栄西は62歳にして日本の仏教史に新時代を画する業績をなしたのである。
 以後、栄西は晩年の10余年間、京都、鎌倉で大寺を監督する長老として、幅広い社会的活動に実際的手腕を発揮し、同時にその体験と思索とを円成(えんじょう)して発表し、世人、子孫に益する思想的活動をなした。当時、公武朝野の努力を結集した国家的大事業として南都復興が進行中であった。このころまで十数年にわたって造東大寺勧進職(ぞうとうだいじかんじんしき)として尽力してきた俊乗房重源が1206年(建永1)寂したとき、朝廷は栄西をその後任とした。栄西の活動と業績は堂舎門廊の造営にその一端がなお伝えられているが、さらに、今日に残る数少ない栄西の自筆書状のなかに、当年の活動ぶりを示すもののあることが注目される。また朝命を受けて、雷火で焼けた京都の法勝寺(ほっしょうじ)九重塔を復興したのもこのころであった。朝廷は栄西を法印(ほういん)、権僧正(ごんのそうじょう)に叙任して功に報いているが、その後、栄西の側から大師号を要請したと伝えられている。なおこのころ、京都のみならず鎌倉でも活動している。ことに将軍源実朝(さねとも)の知遇を得て、2人の間にはしばしば法談も交わされた。栄西の最後の著『喫茶養生記(きっさようじょうき)』はその法談を動機として編述されたのである。彼は建保(けんぽう)3年6月(あるいは7月)5日75歳で寂したが、その入寂の地に関しては京都、鎌倉の二つの伝承があり、そのいずれが事実であるかは、今日なお論じられるところである。[多賀宗隼]

思想

栄西は台密信仰をもって一生を貫き、東密思想を加えた一派を創して葉上流の祖とされる。禅を説いた著は58歳のときの『興禅護国論』のみであるが、ここでは戒律を禅の基礎と説くところに特色がある。この思想は、戒の実践を日常生活のなかに説いた著『出家大綱(しゅっけたいこう)』に具体化され、他方、『斉戒勧進文(さいかいかんじんもん)』『円頓三聚一心戒(えんどんさんじゅいっしんかい)』などもっぱら戒を説いた書が栄西の著と伝えられている。一方、64歳の著『日本仏法中興願文』にも、仏法興隆の宿志を訴えるとともに、持戒衰退の世相を嘆(なげ)いている。弟子に栄朝(1165―1247)、行勇があり、彼らによって天台、禅の兼修の宗風が関東に伝わった。建仁寺には明全(みょうぜん)(1184―1225)、道元(どうげん)があり、衣鉢(えはつ)を嗣(つ)いだ。道元の『正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)』が栄西の高風清節を伝えていることは周知されているが、栄西と道元とが相まみえたか否かは疑問視されている。[多賀宗隼]
『木宮泰彦著『栄西禅師』(1916・丙午出版社/1977・国書刊行会) ▽多賀宗隼著『栄西』(1965/新装版・1986・吉川弘文館)』

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367日誕生日大事典

栄西 (えいさい)
生年月日:1141年4月20日
平安時代後期;鎌倉時代前期の臨済宗の僧
1215年没

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精選版 日本国語大辞典

えいさい【栄西】
鎌倉初期の僧。日本臨済宗の開祖。備中の人。字(あざな)は明庵。通称千光国師。比叡山で台密を修め、二度宋に渡り天台山で禅を学ぶ。博多に聖福寺、鎌倉に寿福寺、京都に建仁寺を開き、禅宗の布教につとめた。また、宋から茶の種を移入、栽培。主著「興禅護国論」「喫茶養生記」など。「ようさい」ともいう。保延七~建保三年(一一四一‐一二一五

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ようさい ヤウサイ【栄西】

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旺文社日本史事典 三訂版

栄西
えいさい
1141〜1215
鎌倉時代の禅僧。臨済宗の開祖
「ようさい」とも読む。備中(岡山県)の人。初め比叡山で天台宗を修め,1168年・'87年の2度の入宋により臨済禅を学び,'91年帰国後,博多に聖福寺を開いた。のち幕府帰依をうけ,鎌倉に寿福寺,京都に建仁寺を建立し,『興禅護国論』を著した。旧仏教諸宗の圧迫を避けるため建仁寺は延暦寺の末寺,台密禅の道場とした。また宋より茶種を伝え,『喫茶養生記』を著した。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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栄西
ようさい

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

栄西 えいさい

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

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