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桃中軒雲右衛門【とうちゅうけんくもえもん】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

桃中軒雲右衛門
とうちゅうけんくもえもん
[生]1873. 群馬,高崎
[没]1916.11.7. 東京
浪曲家。本名山本幸蔵。旅回りの祭文 (さいもん) 語りの父について横浜,京都,九州各地を巡演し,1907年東京本郷座で『忠臣蔵銘々伝』を口演して成功,浪花節を東京の大劇場に進出させた。琵琶浄瑠璃清元などを取入れて,いわゆる「雲調」を生み出し,また武士道鼓吹標榜,『赤穂義士伝』を得意とした。在来の浪花節を整理統合して,その地位を高めた功績は大きい。なお,真山青果作の戯曲に『桃中雲右衛門』 (1927) がある。

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デジタル大辞泉

とうちゅうけん‐くもえもん〔タウチユウケンくもヱモン〕【桃中軒雲右衛門】
[1873~1916]浪曲師。茨城の生まれ。本名、岡本峰吉。門付け芸にすぎなかった浪曲(浪花節)を、大劇場で通用するに高めた、浪曲中興の宮崎滔天(みやざきとうてん)らと交わり、浪曲によって武士道を吹した。

出典:小学館
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

桃中軒雲右衛門 とうちゅうけん-くもえもん
1873-1916 明治-大正時代の浪曲師。
明治6年10月25日生まれ。祭文(さいもん)語りの父(芸名吉川繁吉)のもとで修業,吉川小繁,2代繁吉を名のる。関西,九州で名をあげ,桃中軒雲右衛門と改名。明治40年東京の本郷座に出演,「義士銘々伝」が大評判をよぶ。歌舞伎座にも出演,浪曲の社会的地位をたかめ,浪曲中興の祖とされる。大正5年11月7日死去。44歳。群馬県出身。本名は山本幸蔵。

出典:講談社
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デジタル大辞泉プラス

桃中軒雲右衛門
1936年公開の日本映画。監督・脚色成瀬巳喜男原作:真山青果、撮影:鈴木博。出演:月形竜之細川ちか子、千葉早智子ほか。

出典:小学館
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世界大百科事典 第2版

とうちゅうけんくもえもん【桃中軒雲右衛門】
1873‐1916(明治6‐大正5)
浪曲家。本名岡本峰吉。茨城県生れ。祭文(さいもん)語りの父吉川繁吉について修業し,小繁から父の芸名を継いだ。のち桃中軒雲右衛門となって琵琶や清元の節調を加味した荘重豪快な節を創始し,従来の浪曲家にみられた野卑な演題を整理し,台本を作成して内容を高めた。関西,九州と巡業して人気を集め,1906年に東京本郷座において赤穂浪士題材とする《義士銘々伝》を口演して満都の注目を集め,12年には歌舞伎座でも独演会を開いて満員の客を呼んだ。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

とうちゅうけんくもえもん【桃中軒雲右衛門】
1873~1916 浪曲師。本名、山本幸蔵。群馬県生まれ。1907年(明治40)東京本郷座で「義士銘々伝」を口演。迫力ある節調で人気を得る。武士道鼓吹を旗印に浪曲の内容を高め、その地位向上に尽くした。

出典:三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)

桃中軒雲右衛門
とうちゅうけんくもえもん
(1873―1916)
浪曲師。本名岡本峰吉。上州祭文(さいもん)の黒繁(くろしげ)こと吉川繁吉の次男として群馬県に生まれる。小繁と名のり東京・浅草の掛け小屋で人気をとったが、父の死後、名跡を継いで浪花節(なにわぶし)へ転向した。1898年(明治31)、市川梅車(ばいしゃ)一座に客演中、梅車の妻でお浜という三味線の名手と駆け落ちして関西へ去る。その後九州まで放浪し、孫文とも親交のあった壮士宮崎滔天(とうてん)らと知り合い、その後援を得て、忠臣蔵を題材に台本を整備し、伴奏も関西風な水調子に九州系の琵琶(びわ)の手を加味して芸風を一新、名も桃中軒雲右衛門と変え、ついに九州で第一人者となった。
 1907年(明治40)3月の関西公演で成功、その勢いにのって同年6月、東京・本郷座で「武士道鼓吹」の看板の下に、27日間『義士銘々伝(めいめいでん)』を口演し続けて大成功を収めた。テーブル掛けで覆った机の前に立って口演するというこのときの演出方法は、その後の浪曲界の興行形態に大きな影響を与えた。13年(大正2)相三味線でもあったお浜が肺結核で没したあと、雲右衛門も急速に衰えをみせて、以後新作を発表することなく、大正5年11月7日、同じ病で没した。[秩父久方]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

とうちゅうけん‐くもえもん タウチュウケンくもヱモン【桃中軒雲右衛門】
浪曲家。本名岡本峯吉。茨城県出身。旅回りのうちに修業し、明治三九年(一九〇六)、東京本郷座での「義士銘々伝」により人気を得た。浪曲の社会的地位の向上にも力を尽くす。明治六~大正五年(一八七三‐一九一六

出典:精選版 日本国語大辞典
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