●森有礼【もりありのり】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
森有礼
もりありのり
[没]1889.2.12. 東京
明治初期の外交官,教育家。子爵。幼名助五郎,金之丞。有礼は号。林子平の『海国兵談』を読んで,海外事情を知る必要を悟り,洋学,漢学を学び武術を修めた。薩摩の藩校に学び,慶応1 (1865) 年沢井鉄馬と変名してイギリスに留学,ロンドン大学に学んだ。ロシアで海軍技術を見学し,アメリカを経て帰朝し,明治1 (68) 年外国官権判事。議事体裁取調御用,公議所議長心得を経たが,官吏,軍人のほかは廃刀すべしと唱えて,武人の反感を買い免官となった。のち,小弁務使に任じられアメリカに駐在。『日本に於ての宗教の自由』 Religious Freedom in Japan (72) ,『日本の教育』 Education in Japan (73) などを著わした。外務大丞,同少輔,清国公使などを経て,イギリス公使となり,外交官として活躍。 1873年明六社の創設を発起し,『明六雑誌』を発刊。開化論,泰西思想の普及に努めた。 85年伊藤博文内閣で,初代文相となり,学制改革に貢献した。日本の戦前期の教育制度の骨格は彼のもとで公布された小学校令,中学校令,師範学校令,帝国大学令の4つの法律によりつくりあげられたとされている。性剛直であったため,宗教上の誤解を招き,大日本帝国憲法公布の日,壮士西野文太郎に暗殺された。著書に『妻妾論』,1972年には『森有礼全集』 (3巻) が刊行された。
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デジタル大辞泉
もり‐ありのり【森有礼】
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus
森有礼 もり-ありのり
弘化(こうか)4年7月13日生まれ。もと薩摩(さつま)鹿児島藩士で,藩命で英米に留学。新政府につかえたが廃刀案を否決され辞職。明治3年ふたたびむかえられ,外務大輔,イギリス公使などを歴任。この間明六社を結成,「明六雑誌」を刊行して啓蒙活動をおこなった。18年初代文相となり,諸学校令を制定して教育制度を確立。刺客西野文太郎におそわれ,明治22年2月12日死去。43歳。通称は金之丞。
【格言など】女子は天然の教員なり(持論)
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世界大百科事典 第2版
もりありのり【森有礼】
明治前半期の啓蒙思想家,外交官,教育行政家。初代文部大臣。薩摩藩士出身で,1865年(慶応1)藩命により五代友厚らとイギリスに留学。ロンドンで海軍測量術を研究し,ロシアをも巡遊。67年アメリカの宗教家トマス・ハリスを頼って渡米し,勤労と信仰の生活を送り,翌年帰国。明治新政府の徴士となり,議事体裁取調御用,学校取調となる。69年(明治2)公議所議長心得となり,廃刀論を提案したが否決され,一時免官となって帰郷。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
森有礼
もりありのり
(1847―1889)
初代文部大臣として日本の近代学校制度の基調を固めた代表的文教行政官。薩摩(さつま)藩の下士に生まれ、藩校造士館および開成所(洋学校)に学んだ。1863年(文久3)の薩英戦争を体験したのち、1865年(慶応1)には藩の内命でロンドンに留学、ついでアメリカに渡って神秘主義宗教家T・L・ハリスThomas Lake Harris(1823―1906)の感化を受けた。1868年(明治1)に帰国すると、ただちに明治政府に迎えられて徴士外国官権判事となり、ついで議事体裁取調、学校取調兼勤などに任命されたが、廃刀を建議していれられず辞任。1870年少弁務使としてアメリカ在勤を命ぜられて渡米し、外債募集や文化外交の衝にあたった。在任中、英文による『信仰自由論』や『日本の教育』の刊行を試みたが、1873年帰国して外務大丞(だいじょう)、清国(しんこく)公使、外務卿(きょう)代理などを歴任した。この間、明六社(めいろくしゃ)を設け、男女同権を論じて世論を導く一方、商法講習所(のちの一橋大学)を興して商業教育の端緒を開くなど幅広い啓蒙(けいもう)活動を展開した。ついで1879年特命全権公使としてイギリス駐在を命ぜられ、条約改正の交渉を進めたが、1882年の夏伊藤博文(いとうひろぶみ)とパリに会し、教育問題を論じて意気投合し、1884年帰国すると参事院議官、文部省御用掛兼務に任命された。翌1885年内閣制度の成立とともに第一次伊藤内閣の文相となった。1886年には帝国大学令など一連の学校令を公布して学校体系の整備を図り、とくに人材育成のため師範教育を重視し、これに兵式体操を導入した。在任約3か年、東北から沖縄まで全国各地を巡視して学校令の主旨を説いたが、その進歩的思想と果断な性格が誤解を招き、1889年(明治22)2月11日、帝国憲法発布の当日、刺客西野文太郎(にしのぶんたろう)(1869―1889)に襲われ、翌日43年の短い生涯を閉じた。
[上沼八郎]
『大久保利謙編『森有礼全集』全3巻(1972・宣文堂)』▽『井上勝也著『国家と教育 森有礼と新島襄の比較研究』(2000・晃洋書房)』▽『秋枝蕭子著『森有礼とホーレス・マンの比較研究試論』(2004・梓書院)』▽『長谷川精一著『森有礼における国民的主体の創出』(2007・思文閣)』
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精選版 日本国語大辞典
もり‐ありのり【森有礼】
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旺文社日本史事典 三訂版
森有礼
もりありのり
明治前期の政治家。近代教育制度の基礎を確立した
薩摩藩出身。藩命でイギリス・アメリカに留学し,帰国後,新政府に出仕し学校取調掛・清国公使・イギリス公使などを歴任。1873年明六社を設立し,啓蒙活動に力を注いだ。'85年には第1次伊藤博文内閣の文相となり,ドイツの教育思想を背景に学校令を制定し,国家主義的教育制度の確立をはかったが,欧化主義者とみなされ国粋主義者の反感をうけ,'89年2月11日,憲法発布の日の朝襲撃をうけ,翌日死去。
出典:旺文社日本史事典 三訂版
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