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横井小楠【よこい しょうなん】

美術人名辞典

横井小楠
幕末の熊本士・政治家・思想家。肥後生。名は時存、字は子操、通称平四郎、別号に沼山。江戸に遊学して藤田東湖らと交わる。藩校時習館の守旧的な学風を批判、元田永孚らと実学党をつくり、私塾小楠堂で子弟を教育する。のち福井藩松平慶永(春獄)に招かれて藩の政治顧問となり藩政改革を指導、さらに慶永が幕府政事総裁となるとその政治顧問として幕政改革を推進した。明治新政府の参与に起用される。明治2年(1869)歿、61才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

よこい‐しょうなん〔よこゐセウナン〕【横井小楠】
[1809~1869]江戸末期の思想家・政治家。熊本藩士。通称、平四郎。藩政改革に努めたが失敗し、松平慶永に招かれて福井藩の藩政を指導。富国強兵を説き、また、幕府の公武合体運動に活躍。明治維新後、暗殺された。著「国是三論」など。

出典:小学館
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

横井小楠 よこい-しょうなん
1809-1869 江戸時代後期の儒者。
文化6年8月13日生まれ。肥後熊本藩士。天保(てんぽう)10年江戸に遊学。帰藩後は家塾をひらき,実学派の中心となる。安政5年福井藩主松平慶永(よしなが)の藩政顧問となり,藩の富国策を指導。新政府のもと,京都で参与となるが,明治2年1月5日暗殺された。61歳。名は時存(ときあり)。字(あざな)は子操。通称は平四郎。別号に沼山。著作に「国是三論」。
格言など】人必死の地に入れば,心必ず決す

出典:講談社
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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

よこいしょうなん【横井小楠】
1809‐69(文化6‐明治2)
幕末・維新期の思想家,政治家。諱(いみな)は時存,字は子操,通称平四郎。小楠は号。熊本藩士の次男として熊本に生まれた。藩校時習館に学び,居寮長に進んだのち江戸に遊学したが,酒で失敗して帰国させられた。1843年(天保14)ごろ同志と実践的朱子学のグループを結成して学問と政治の一致を目ざし,〈実学〉を唱えた。また同じころ私塾を開いた。徳富一敬(蘇峰の父)が弟子の第1号であった。54年(安政1)兄の死によって家督を相続したが,実学党の名まえが広く知れわたったにもかかわらず,肥後では不遇な一藩士にとどまった。

出典:株式会社平凡社
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

横井小楠
よこいしょうなん
[生]文化6(1809).8. 熊本
[没]明治2(1869).1.5. 京都
幕末維新の開明的経世家,政治家,思想家,教育家。肥後藩士大平の次男。幼名は又雄,のち時存。通称は平四郎。小楠,沼山と号した。藩校時習館で儒学を学び,30歳のとき江戸に出て藤田東湖らと交わり,翌年帰郷して家塾を開き,学問と政治を一致させる実学を唱えた。各地を巡遊し,安政5 (1858) 年から7年間,4回にわたり越前藩主松平慶永に招かれて福井に滞在し,『国是三論』を著わして,開国通商,富国強兵,士道3論から成る大綱を主張。慶永を通じて幕政にも参画し,幕府改革,公武合体運動を進めた。福井藩の政変で失脚して帰国。維新後新政府に招かれて京都に行き,制度局判事,参与に任じられたが,その開明的な言動が保守派にキリスト教信者と誤解され,退庁の途中十津川郷士,津下四郎左衛門らに暗殺された。その立場は豪商農層を背景とする重商主義,農権国家の樹立であったとされ,その論策,書簡は山崎正董編『横井小楠遺稿』に収められている。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

横井小楠
よこいしょうなん
(1809―1869)

幕末維新期の思想家、政治家。熊本藩士。名は時存(ときあり)、小楠は号。藩校時習館に学んで朱子学的教養を身につけ、実学にも関心を寄せた。1839年(天保10)江戸に遊学、佐藤一斎(さとういっさい)、藤田東湖(ふじたとうこ)らと交渉をもったが、過失あり帰藩逼塞(ひっそく)を命ぜられた。ペリー来航時攘夷(じょうい)論を唱えたが、その後世界地理書『海国図志』(ブリッジマン著、魏源編集)を読んで開国通商による富国強兵論を主張するに至った。1858年(安政5)福井藩主松平慶永(まつだいらよしなが)の招聘(しょうへい)を受け藩校明道館で講学、ついで江戸へ行き、政事総裁職となった慶永の補佐にあたり、開国貿易、殖産興業、海軍強化策などを説いた。1862年(文久2)刺客に襲われた際の挙動が士道に背くとして藩から帰国を命ぜられ、知行(ちぎょう)没収、士籍剥奪(はくだつ)の処分を受け蟄居(ちっきょ)。明治政権成立後、徴士、参与、制度局判事となり、岩倉具視(いわくらともみ)の信任を受けたが、病気のためたいした活動はできなかった。しかも洋風化の中心としてキリスト教を広めるとみた旧攘夷(じょうい)派のため暗殺される。彼は外国語に通じなかったがよく西洋文物を理解し、勝海舟(かつかいしゅう)、坂本龍馬(さかもとりょうま)らを敬服させたが、その教養の根底には政治と学問とを連続したものとみなす朱子学の理念が強く流れていたといわれる。

[山口宗之 2016年7月19日]

『山崎正董著『横井小楠』上下(1938・明治書院)』

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精選版 日本国語大辞典

よこい‐しょうなん【横井小楠】
幕末から明治維新の思想家。熊本藩士出身。越前福井藩に招かれ、開国貿易・殖産興業など富国強兵策による藩政改革を指導、また幕府の公武合体運動を推進した。維新後、新政府の創業に参画したが、明治二年(一八六九)暗殺された。文化六~明治二年(一八〇九‐六九

出典:精選版 日本国語大辞典
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旺文社日本史事典 三訂版

横井小楠
よこいしょうなん
1809〜69
幕末・維新期の政治家
通称平四郎。熊本藩士。儒学・洋学を修め海外情勢に明るく,熊本実学党を結成した。1858年越前藩主松平慶永 (よしなが) の政治顧問となり,殖産興業・開国貿易の必要を説き富国強兵をめざす藩政改革を指導。'62年慶永が幕府の政事総裁職につくと公武合体運動に活躍,翌年失脚した。のち明治政府の徴士・参与となったが開明的識見のゆえに保守派に暗殺された。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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