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橋本雅邦【はしもと がほう】

美術人名辞典

橋本雅邦
日本画家。江戸生。川越藩御用絵師橋本晴園養邦の子。幼名は千太郎、のち長卿。別号に克己斎・酔月画生等。狩野勝川院雅信の門。フェノロサ岡倉天心と協力、東美校初代教授となる。また日本美術院を創立、菱田春草横山大観下村観山西郷孤月川合玉堂らの俊秀を育てる。のち玉堂らと二葉会を結成、画宝会を組織した。狩野芳崖と共に明治画壇の巨擘。帝室技芸員。明治41年(1908)歿、74才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

はしもと‐がほう〔‐ガハウ〕【橋本雅邦】
[1835~1908]日本画家。江戸の生まれ。本名、長郷。狩野派に学び、狩野芳崖とは同門。フェノロサ岡倉天心に認められ、新日本画の確立に尽くす。東京美術学校教授として横山大観下村観山菱田春草らを指導。日本美術院創立会員。作「白雲紅樹図」など。

出典:小学館
監修:松村明
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

橋本雅邦 はしもと-がほう
1835-1908 明治時代の日本画家。
天保(てんぽう)6年7月27日生まれ。狩野雅信(かのう-ただのぶ)に入門。フェノロサ,岡倉天心らの鑑画会に参加し,狩野芳崖(ほうがい)らと新画風を開拓。明治23年東京美術学校(現東京芸大)初の日本画教授となる。31年辞職して天心とともに日本美術院を創立した。明治41年1月13日死去。74歳。江戸出身。幼名は千太郎,のち長卿。作品に「白雲紅樹図」「竜虎図屏風(びょうぶ)」など。

出典:講談社
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江戸・東京人物辞典

橋本雅邦
1835〜1908(天保6年〜明治41年)【日本画家】狩野派の様式美に洋画的写実を取り入れた。 近代日本画の。幕末?明治期の日本画家。江戸木挽(こびき)町に生まれる。13歳で狩野雅信の門下となり、20歳で狩野塾の塾頭となった。維新後、生活のため海軍兵学寮に製図係として出仕した。フェノロサと岡倉天心に出会い、狩野芳崖(ほうがい)とともに鑑画会を設立。狩野派に洋画風の表現を加味し、近代日本画のを築く。1890年(明治23)東京美術学校教授に就任。1898年岡倉天心らと日本美術院を創立、主幹となる。代表作「白雲紅樹」「竜虎図屏風」など。

出典:財団法人まちみらい千代田
監修:江戸東京博物館 都市歴史研究室長 北原 進
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世界大百科事典 第2版

はしもとがほう【橋本雅邦】
1835‐1908(天保6‐明治41)
明治時代の日本画家。川越藩の絵師橋本晴園養邦の子として江戸木挽町の狩野邸内で生まれる。幼名千太郎。別号は十雁斎,酔月画生など。1847年(弘化4),13歳で狩野勝川院雅信に入門,勝園雅邦(ただくに)の号を与えられる。20歳のころには生涯の友狩野芳崖とともに塾頭にあげられ,勝川院門の竜虎と称された。1860年(万延1)独立を許されたが,明治維新の激動の中で生活に困窮し,中国向け輸出の扇子絵描きなどで糊口をしのぎ,世に出る機会はなかった。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

はしもとがほう【橋本雅邦】
1835~1908 日本画家。江戸生まれ。本名、長郷。狩野派を学ぶが、フェノロサ・岡倉天心の指導を受け、狩野芳崖とともに新しい日本画の創造に尽力。東京美術学校・日本美術院の創立に参加、横山大観などの後進の育成にあたった。代表作「白雲紅樹図」「竜虎図屛風」など。

出典:三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

橋本雅邦
はしもとがほう
[生]天保6(1835).7.27. 江戸
[没]1908.1.13. 東京
日本画家。幼名は千太郎,のち長郷。川越藩御用絵師橋本晴園の子で,江戸木挽町狩野家の邸内で生れ,幼時から父の手ほどきを受けた。弘化4 (1847) 年狩野雅信に学んで勝園雅邦と号し,同門の狩野芳崖とともに四天王の一人に数えられ塾頭をつとめた。 1882年の第1回,84年の第2回内国絵画共進会展で世の注目を浴びる。 E.フェノロサ,岡倉天心の鑑画会に参加,日本美術院の設立にも加わって新日本画形成に努力し,横山大観,菱田春草,下村観山,川合玉堂らを育てた。文部省絵画取調所員,東京美術学校教授,帝室技芸員。主要作品『月夜山水』 (89,東京芸術大学) ,『白雲紅樹図』 (90,同) ,『竜虎図屏風』 (95,静嘉堂文庫,重文) ,『春秋山水図』 (1901,宮内庁三の丸尚蔵館) 。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

橋本雅邦
はしもとがほう
(1835―1908)
明治の日本画家。江戸木挽町(こびきちょう)の狩野(かのう)家邸内で川越(かわごえ)藩の絵師橋本晴園養邦(せいえんおさくに)の子として生まれる。幼名千太郎、本名は長郷。初め父に手ほどきを受けたが、1847年(弘化4)に狩野勝川院雅信(かのうしょうせんいんただのぶ)に入門。同門に狩野芳崖(ほうがい)がおり、2人は深く交わり画技を競った。60年(万延1)に独立を許されたが、幕末維新の混乱に際会して困窮を極めた。82年(明治15)第1回内国絵画共進会で受賞して名を知られ、フェノロサ、岡倉天心の知遇を得て芳崖とともに鑑画会に加わり、日本画革新の運動を進めることになった。東京美術学校設立にも力を尽くし、89年開校とともに教師陣の中心として後進の育成にあたり、同年帝室技芸員となる。横山大観、下村観山、菱田(ひしだ)春草らはその門下である。98年天心に殉じて美術学校を退き、日本美術院創立に加わり、その主幹となった。代表作『白雲紅樹』は1890年の第3回内国勧業博覧会への出品作。ほかに『月夜山水』『龍虎(りゅうこ)』などが著名。[原田 実]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

はしもと‐がほう【橋本雅邦】
日本画家。江戸の人。名は長卿。初め狩野雅信に学ぶ。号、勝園雅邦。岡倉天心、フェノロサとともに明治の新日本画創造のために活躍。東京美術学校、日本美術院創立に尽くす。帝室技芸員。代表作「龍虎図屏風」「白雲紅樹」。天保六~明治四一年(一八三五‐一九〇八

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旺文社日本史事典 三訂版

橋本雅邦
はしもとがほう
1835〜1908
明治時代の日本画家
江戸の人。狩野雅信に絵を学ぶ。フェノロサ・岡倉天心らと東京美術学校創立に参加し教授となり,のち日本美術院をおこした。穏健で保守的な作風だが気迫は充実している。代表作に『白雲紅樹図』『竜虎図屛風』など。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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