●正倉院文書【しょうそういんもんじょ】
防府市歴史用語集
正倉院文書
出典:ほうふWeb歴史館
Copyright 2002,Hofu Virtual Site Museum,Japan
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
世界大百科事典 第2版
しょうそういんもんじょ【正倉院文書】
出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.
日本大百科全書(ニッポニカ)
正倉院文書
しょうそういんもんじょ
東大寺正倉院の校倉(あぜくら)に伝来した8世紀の造東大寺司(ぞうとうだいじし)写経所の古文書。この写経所は、736年(天平8)ころから活動を始めた聖武(しょうむ)天皇の皇后光明子(こうみょうし)の皇后宮職(しき)の写経所が発展したもの。天平(てんぴょう)12年5月1日の願文のある五月一日経(光明皇后願経)など宝亀(ほうき)年間(770~780)までたびたび行われた写経事業に関する文書・帳簿が大部分を占める。当時事務用に反故紙(ほごがみ)を用いて紙を節約することが多かったので、写経所の文書・帳簿にも、政府から払い下げられた戸籍(大宝(たいほう)2年〈702〉御野(みの)・筑前(ちくぜん)・豊前(ぶぜん)・豊後(ぶんご)国、養老(ようろう)5年〈721〉下総(しもうさ)国)、計帳(天平年間〈729~749〉の山背(やましろ)国など)、正税(しょうぜい)帳(天平年間の大倭(やまと)国など)などの官文書や、法華寺(ほっけじ)・興福寺・石山寺などの造営文書などさまざまな紙が利用されており、紙背(しはい)文書(第一次文書)として残っている。
正倉院文書は、正史や律令(りつりょう)では知りえない、8世紀の地方行政、家族、建築、手工業、流通経済、社会生活についての具体的な史料を提供している。正倉院文書が校倉に納められて以来、初めて整理され世間に知られるようになったのは1833~36年(天保4~7)の開封修理の際である。そのとき穂井田忠友(ほいだただとも)は二官八省の文書、筆跡などを抜き出して正集45巻に整理した。残された文書は、その後1875~1904年(明治8~37)にかけて、続修50巻、続修後集43巻、続修別集50巻、続々修440巻2冊、塵芥(じんかい)39巻3冊に整理され、合計667巻5冊に編集された。文書総点数は約1万点ともいわれる。その大部分は『大日本古文書』に翻刻され研究に利用されている。
なお、正倉院にはほかに、献物帳、平安前期の宝物の出納帳、丹裹(にづつみ)文書(丹の包紙に使われた反故文書)が伝来し、8世紀の荘園(しょうえん)絵図やさまざまの器物の墨書銘などの文字資料も多い。また、明治初年、東大寺印蔵から移された東南院(とうなんいん)文書112巻(8世紀の荘園文書多数を含む)も正倉院に収められている。
[石上英一]
『竹内理三編『寧楽遺文』全3巻(1963・東京堂出版)』▽『正倉院事務所編『正倉院の紙』(1970・日本経済新聞社)』▽『正倉院事務所編『正倉院の書蹟』(1964・日本経済新聞社)』▽『松島順正編「正倉院の書跡」(『日本の美術105』1975・至文堂)』▽『土田直鎮「正倉院文書について」(『国学院大学日本文化研究所紀要』41所収・1978・国学院大学日本文化研究所)』▽『皆川完一「正倉院文書について」(国立歴史民俗博物館編『正倉院文書展』所収・1985・歴史民俗博物館振興会)』
出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
旺文社日本史事典 三訂版
正倉院文書
しょうそういんもんじょ
出典:旺文社日本史事典 三訂版
執筆者一覧(50音順)
金澤利明 竹内秀一 藤野雅己 牧内利之 真中幹夫
Copyright Obunsha Co.,Ltd. All Rights Reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
「正倉院文書」の用語解説はコトバンクが提供しています。
●正倉院文書の関連情報