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毛利氏【もうりうじ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

毛利氏
もうりうじ
鎌倉時代,大江広元の子季光に始る中国地方の豪族。広元が相模国毛利荘をあてがわれ,その子季光が跡を継ぎ,その名を取って毛利氏と称した。承久の変後,季光は安芸吉田荘地頭職を得て相伝され,南北朝時代以降ここを拠点として勢力を伸ばした。大永3 (1523) 年元就が家督を継いで,初め尼子氏,のち大内氏に属し,大内義隆が家宰陶 (すえ) 晴賢に殺されると,天文 24 (55) 年安芸厳島に襲撃して晴賢を自殺させ,のち周防長門の両国をも支配し,安芸吉田城を拠点に戦国大名へと成長,所領は中国地方全域に及んだ。孫の輝元は豊臣秀吉に属し,五大老の一人となり,広島城を築き,安芸,周防 120万石余を領した。関ヶ原戦いでは西軍の主将となったが,敗れて周防,長門2ヵ国 36万 9000石に減封された。さらに輝元は慶長9 (1604) 年長門国阿武郡の城に入城以後代々居城をここに定め長州藩を編成。幕末,藩主敬のとき周防山口に新館を設けてここに移った。明治にいたり公爵。一族は長府,徳山厚狭,右田,清末,吉敷,阿川,大野などに支藩を形成した。

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防府市歴史用語集

毛利氏
 室町時代は安芸[あき]国吉田の地方領主でしたが、毛利元就[もうりもとなり]の時代になってから、戦国大名として次第に勢力をのばし、中国地方の多くを支配下としましたが、関ケ原せきがはら]の戦いでは豊臣家に味方したため、以後は、周防[すおう]・長門[ながと]の2ヶ国に領地を減らされました。

出典:ほうふWeb歴史館
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世界大百科事典 第2版

もうりうじ【毛利氏】
(1)西中国の雄族で中・近世大名(図)。大江広元が相模国毛利荘をその子季光に譲り,季光がここを苗字の地としたのに始まる。季光は宝治合戦(1247)で三浦氏担したため同荘を没収されたが,その第4子経光は荷担せず越後国佐橋荘,安芸国吉田荘等を保持した。経光は1270年(文永7)両所を第4子時親に譲った。吉田荘では96年(永仁4)領家・地頭間で下地中分(したじちゆうぶん)が行われ,時親は吉田,麻原(おはら)を領した。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

毛利氏
もうりうじ
鎌倉幕府政所別当(まんどころべっとう)、大江広元(おおえのひろもと)の四男季光(すえみつ)が、相模国(さがみのくに)毛利荘(もりのしょう)(神奈川県厚木市)を領し毛利姓を称したのに始まる。中世の読みは「もり」。季光は、1247年(宝治1)三浦泰村(みうらやすむら)の乱(宝治合戦(ほうじかっせん))にくみして3人の子息とともに戦死した。しかし、越後国(えちごのくに)佐橋荘(さばしのしょう)(新潟県柏崎(かしわざき)市)に居住し、同荘と安芸国(あきのくに)吉田荘(よしだのしょう)(広島県安芸高田(たかた)市吉田町)を所領とした四男経光(つねみつ)は、この乱に関与せず、その子孫は越後と安芸に分かれて存続した。
 越後毛利氏は、経光の嫡子基親(もとちか)に始まるが、その系譜は諸説あり不明な点も多い。佐橋荘を相伝した道幸の代に室町幕府から鵜川荘(うかわのしょう)安田(やすだ)条(柏崎市)を宛行(あておこな)われ、その子孫は、北条(きたじょう)姓、安田姓などを称したが、毛利姓でよぶ場合も多く、戦国期はともに上杉家臣。なかでも北条高広(たかひろ)は、上杉謙信(けんしん)の重臣として厩橋(うまやばし)(群馬県前橋市)に居城した。
 安芸毛利氏は、経光から吉田荘1000貫を譲与された四男の時親(ときちか)が、南北朝期初頭に吉田荘の郡山(こおりやま)に移住して居城を構えたのに始まる。応仁(おうにん)の乱(1467~77)の間に豊元(とよもと)は、大内氏から安芸国賀茂(かも)郡(広島県賀茂郡)内で1000貫などを宛行われ所領を拡大、以後大内氏に従属したが、戦国期の元就(もとなり)の代に大内氏から自立し、1557年(弘治3)に大内氏を、1566年(永禄9)には尼子(あまご)氏を滅ぼして中国地方10か国を領有する戦国大名となった。孫の輝元(てるもと)は豊臣秀吉(とよとみひでよし)に従属し、1591年(天正19)秀吉から8か国、112万石を安堵(あんど)され、広島城(広島市)に本拠を移したが、関ヶ原の戦い(1600)に敗れ、徳川家康に周防(すおう)、長門(ながと)の2か国に領国を削減されて萩(はぎ)(山口県萩市)に居城した。江戸時代は、公称高36万9000余石で長州藩主。幕末の藩主敬親(たかちか)は、藩府を山口に移し討幕を推進、維新後、元徳(もとのり)は山口藩知事となり、のち公爵となった。[舘鼻 誠]
『渡辺世祐著『毛利元就卿伝 上巻』(1944・六盟館) ▽渡辺世祐監『毛利輝元卿伝』(1982・マツノ書店) ▽関久著『越後毛利氏の研究』(1965・上越郷土研究会) ▽三坂圭治著『山口県の歴史』(1971・山川出版社) ▽河合正治著『安芸毛利一族』(1984・新人物往来社)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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旺文社日本史事典 三訂版

毛利氏
もうりし
戦国〜江戸時代の中国地方の大名
祖先は相模国に住し,毛利姓を名のり,源頼朝に仕える。のち安芸 (あき) 国の国人として元就 (もとなり) が機に乗じ中国地方10カ国を平定支配した。孫輝元は豊臣秀吉と和し,五大老の一人となり広島城を本拠とし,周防 (すおう) ・安芸など7カ国120万石余を領有。関ケ原の戦い(1600)に西軍に属したため周防・長門2国(山口県)に減封され萩城を築いて移る。幕末に早くから討幕運動を行った。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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