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毛沢東【もうたくとう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

毛沢東
もうたくとう
Mao Ze-dong
[生]光緒19(1893).11.19. 湖南,湘潭
[没]1976.9.9. 北京
中国の政治家,思想家。中国共産党の指導者。下層中農の子に生れ,辛亥革命が起ると革命軍に約半年間参加。 1913年湖南省立第一師範学校に入学,在学中に進歩的青年団体「新民学会」を組織し,社会的政治的活動に踏出した。五・四運動のなかで湖南の学生連合会機関誌『湘江評論』の編集と執筆にあたり,20年夏頃からマルクス主義者となって社会主義青年団の地方組織をつくった。 21年7月上海における中国共産党創立大会に湖南代表として出席,23年6月の三全大会で中央委員に選ばれた。 24年国共合作が成立すると国民党中央委員候補に選出され,26年の国民党二全大会でも再選,さらに広州の農民運動講習所所長となり農民運動の組織化に努めた。 27年の国共分裂後,秋収暴動を組織,指導したが失敗し,井崗山にたてこもり,28年4月朱徳の部隊と合流して中国工農紅軍を組織してその政治委員となった。以後農村の土地革命,紅軍強化,ソビエト政権樹立などのために戦った。 31年 11月江西省瑞金に中華ソビエト共和国臨時政府が樹立されるとその主席に選出され,34年に再選された。その後5回にわたる国民政府軍の包囲攻撃と戦い,34年 10月根拠地の移動を余儀なくされて長征を開始し,途中の貴州省遵義で 35年1月中国共産党中央政治局拡大会議が開かれた際,党中央の指導権を握るにいたった。 31年以来日本の軍事侵略が強まるなかで内戦停止と一致抗日を呼びかけ,36年の西安事件を契機に日中戦争勃発後の 37年9月国共合作が成立。この間 37年には『実践論』『矛盾論』を書いて党内の教条主義と経験主義の誤りを批判し,中国独自の革命理論を展開。 38年には『持久戦論』を書いて抗日戦勝利の理論的根拠を明らかにするとともに,人民戦争論を打出した。 40年の『新民主主義論』で新民主主義革命の理論を深め,42年から整風運動を指導し,45年『連合政府論』のなかで民主連合政府の必要性を説いた。 45年4月の七全大会で党中央委員会主席に選出された。8月日本の敗北後は民主連合政府を樹立するため蒋介石と交渉を行なったが,国府はアメリカの援助を受けて 46年夏から解放区に全面的な攻撃を開始,約3年にわたる内戦ののち,49年 10月1日中華人民共和国の成立と同時に中央人民政府主席に選ばれ,名実ともに中国の最高指導者となった。 54年9月の第1回全国人民代表大会で憲法が制定されると,共和国国家主席に選出され,59年に辞任して劉少奇と代ったが,45年以来党中央委員会主席の地位にあって内外の政策を指導し,65~69年の文化大革命ではその先頭に立った。 72年 R.ニクソン大統領,田中角栄首相らと会見,国交正常化に努めた。 76年天安門事件の発生で,鄧小平の解任と華国鋒の総理就任を提案。同年9月 83歳で死去。

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デジタル大辞泉

もう‐たくとう【毛沢東】
[1893~1976]中国の政治家・思想家。湖南省湘潭(しょうたん)県の人。1921年、中国共産党の創立に参加。農民運動を指導し、朱徳らと工農紅軍を組織、31年江西省瑞金に中華ソビエト共和国臨時政府を樹立して主席となったが、34年から長征を行い陝西(せんせい)省延安に移動。日中戦争には国共合作し、抗日戦を指導して勝利。戦後蒋介石国民党軍を破り、49年中華人民共和国建国。国家主席・党中央委員会主席に就任して新中国の建設を指導した。66年、文化大革命を起こすが、死後その誤りを指摘された。「新民主主義論」「連合政府論」「実践論」「矛盾論」など。マオ=ツォトン。

出典:小学館
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マオ‐ツォトン【毛沢東】

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

毛沢東 もう-たくとう
1893-1976 中国の共産党指導者。
光緒19年11月19日生まれ。1921年中国共産党創立に参加。農村から都市を包囲する戦略で,党と紅軍の指導権をにぎる。抗日戦の勝利後国民党軍を駆逐,49年中華人民共和国を建国して政府主席,のち国家主席に就任。大躍進政策,文化大革命と,不断の革命を追求した。1976年9月9日死去。84歳。湖南省出身。(あざな)は潤之。著作に「矛盾論」「持久戦論」など。

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

もうたくとう【毛沢東 Máo Zé dōng】
1893‐1976
中国共産党の指導者。湖南省湘潭県韶山区の農家に生まれた。字は潤芝。1911年,長沙の中学に在学中,辛亥革命がおこり志願して革命軍に参加したことがある。13年,省立の師範学校に再入学し,倫理学の教師楊昌済(1871‐1920)の影響下で新文化運動に接し,友人らと新民学会を結成した。18年,師範を卒業,留仏勤工倹学運動に参加して北京に行き,無政府主義,マルクス主義など新思潮に接した(勤工倹学)。五・四運動の際は長沙にあって学生運動を指導,ついで軍閥省長追放など実際の闘争を体験するなかでマルクス主義への確信を強めた。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

毛沢東
もうたくとう / マオツォートン
(1893―1976)

中国共産党の最高指導者として、中国革命を最後的勝利に導き、中華人民共和国の建国、さらには文化大革命を発動した中国の革命家。

 1893年12月に湖南省湘潭(しょうたん)県韶山冲(しょうざんちゅう)の農村に生まれ、長沙(ちょうさ)の師範学校を卒業した。青年時代に政治団体「新民学会」を組織し、五・四運動のなかでマルクス・レーニン主義に開眼、1921年の中国共産党創立大会に参加した。五・三〇事件(1925)後、農民運動に専念し、土地革命の必要を説いたが、党主流にいれられず、1927年の湖南秋収暴動ののち、井岡山(せいこうざん)を革命根拠地に労農紅軍を組織してソビエト政権を樹立、1931年には瑞金(ずいきん)の中華ソビエト臨時政府主席となった。「大長征」の途上、1935年中国共産党遵義(じゅんぎ)会議で党内指導権を確立、同年八・一宣言を行い、長征後は延安を抗日根拠地にして抗日戦争を勝利させた。この間、『実践論』『矛盾論』(ともに1937)の哲学的著作、『中国革命戦争の戦略問題』(1936)、『持久戦論』(1937)などの戦術論、『新民主主義論』(1940)、『連合政府論』(1945)などの新民主主義革命論を発表して中国革命に理論的基礎を与えた。第二次世界大戦後、1949年10月に中華人民共和国を建国、政府主席となった。以後、社会主義改造を指導し、『人民内部の矛盾を正しく処理する問題』(1957)にみられる独自の方法で国内建設を進め、1958年には、全中国農民の人民公社化と「大躍進」政策を断行したが挫折(ざせつ)し、1959年に国家主席の地位を劉少奇(りゅうしょうき)に譲った。1956年以来の中ソ対立では国際共産主義運動の一方の指導者となった。

 このころから、国内では「毛沢東思想」の賞揚と毛沢東神格化が進められ、1965年秋からは文化大革命を発動、毛主席をたたえる紅衛兵の出現などもあって世界を驚かせ、全中国を怒濤(どとう)のなかに導いた。この間、毛沢東の後継者に任命された林彪(りんぴょう)党副主席が人民解放軍をバックに毛沢東を支えたが、その林彪も1971年の林彪事件で失墜し、やがて脱文革の潮流が大きくなっていった。死の直前の1976年4月に毛沢東政治への大衆反乱ともいえる天安門事件(第一次)が起こり、偉大な英雄、そして家父長的な独裁者であった毛沢東も晩年はまったくの孤立無援のなかで1976年9月9日に死去した。その直後には、いわゆる四人組事件が起こって、江青(こうせい)夫人ら側近が逮捕され、毛沢東政治に大きな転換が生じた。毛沢東亡きあと毛沢東思想を護持した華国鋒(かこくほう)主席も、政治の表舞台から追放され、こうして毛沢東時代は完全に終焉(しゅうえん)したのである。

 今日の中国では、非毛沢東化が進められ、「毛沢東思想」は完全に過去のものとなっている。

 なお、最初の妻・楊開慧(1901―1930)は国民党に処刑され、彼女との間に生まれた息子、毛岸英(1922―1950)は朝鮮戦争で戦死した。楊の死後、毛沢東は賀子貞と結婚、のち離婚して、1939年延安で女優の藍蘋(らんぴん)こと江青と結婚した。

[中嶋嶺雄 2016年3月18日]

『『毛沢東選集』全9巻(1971・三一書房)』『『毛沢東語録』(1995・平凡社ライブラリー)』『松村一人・竹内実訳『実践論・矛盾論』(岩波文庫)』『中嶋嶺雄編著『中国現代史〔新版〕』(1996・有斐閣)』『ユン・チアン、ジョン・ハリデイ著、土屋京子訳『マオ 誰も知らなかった毛沢東』上下(2005・講談社)』『中嶋嶺雄著『中国 歴史・社会・国際関係』(中公新書)』『中嶋嶺雄著『北京烈烈――文化大革命とは何であったか』(講談社学術文庫)』『G・パローツィ・ホルヴァート著、中嶋嶺雄訳『毛沢東伝』上下(講談社文庫)』

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精選版 日本国語大辞典

もう‐たくとう【毛沢東】
中国の政治家、思想家。湖南省出身。一九二一年、中国共産党創立大会に湖南省責任者として出席。第一次国共合作中から農民運動を指導し、二八年、朱徳とともに工農紅軍第四軍を組織する。三一年、中華ソビエト共和国臨時政府主席。四九年、中華人民共和国成立とともに国家主席となるが、大躍進政策の失敗で、五九年、退く。六五年以降、文化大革命を起こし、後年その誤りを指摘された。著「実践論」「矛盾論」など。(一八九三‐一九七六

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マオ‐ツオトン【毛沢東】

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