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水戸藩【みとはん】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

水戸藩
みとはん
江戸時代,常陸国 (茨城県) 茨城郡水戸地方を領有した藩。天正 18 (1590) 年江戸氏を滅ぼした佐竹義宣が 54万 6000石で立藩。佐竹氏は関ヶ原の戦いで西軍に内通したため出羽秋田 (秋田県) 20万 5800石に減転封され,代って松平信吉 (家康の5子) が下総佐倉 (千葉県) から 15万石で入封。慶長8 (1603) 年信吉が没し,嗣子なく除封。代って徳川頼宣が2万石で入封,同 14年頼宣は駿河 (静岡県) 府中へ移封し,家康の 11子徳川頼房が 25万石で常陸下妻より入封。のち3万石加封,水戸徳川家の初代藩主となった。第2代藩主は水戸黄門で知られる光圀で,彼が編纂を開始した『大日本史』は,その後の水戸学の礎となったばかりか幕末の尊攘派に多大な影響を与えた。次の綱条 (つなえだ) が元禄 14 (1701) 年7万石の加増を受けて 35万石となった。第9代藩主斉昭 (なりあき) は藤田東湖などの人材を登用して藩政改革に尽力し尊攘派の急先鋒となったが,井伊直弼 (なおすけ) と対立し失意のまま没した。その後,藩内では尊攘派と佐幕派の対立が激化し,分裂したまま明治維新を迎えた。御三家,江戸城大廊下詰。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル大辞泉プラス

水戸藩
常陸国、水戸(:△茨城県水戸市▽)を本拠地とした徳川親藩。尾張紀伊と並ぶ御三家のひとつ。藩主は徳川家康の11男・頼房の入封以降、水戸徳川氏。歴代藩主では、「大日本史」の編纂を開始した徳川光圀(水戸黄門)、藩政改革を推進し弘文館を創設した徳川斉昭などが有名。

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藩名・旧国名がわかる事典

みとはん【水戸藩】
江戸時代常陸(ひたち)国茨城郡水戸(現、茨城県水戸市)に藩庁をおいた親藩(しんぱん)で、尾張藩紀伊藩とともに御三家の一つ。藩校は弘道(こうどう)館。水戸家は尾張・紀伊家と異なって参勤交代を免除され、江戸小石川(現、東京都文京区)の藩邸に藩主が常住した。ここから副将軍の俗称が生まれたとされる。水戸藩は徳川家康(いえやす)の11男頼房(よりふさ)が水戸25万石を領した1609年(慶長(けいちょう)14)から始まり、明治維新まで11代存続した。2代徳川光圀(みつくに)のとき、『大日本史』の編纂(へんさん)事業を進め、水戸学の基礎がつくられた。石高は3代徳川綱条(つなえだ)時代から35万石を公称。9代徳川斉昭(なりあき)のとき、藤田東湖(ふじたとうこ)らを登用して天保(てんぽう)の改革を実施した。この改革は水戸学とともに全国に大きな影響を与えたが、藩論は分裂、1844年(弘化1)に斉昭以下の改革派が幕府から処断された。以後、改革派の流れをくむ尊王攘夷派と保守門閥派の対立が激化、1860年(安政7)は尊攘派の一部による桜田門外の変、1864年(元治(げんじ)1)は天狗党の乱などで混乱するなか、明治維新を迎えた。1871年(明治4)の廃藩置県により、水戸県を経て茨城県に編入された。

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

みとはん【水戸藩】
常陸国(茨城県)水戸に置かれた親藩で三家の一つ。徳川家康の十一男徳川頼房が1609年(慶長14)常陸下妻城主から水戸に移封され,25万石を領したときに始まる。頼房以前,佐竹義宣が水戸から秋田へ移封された直後に家康の五男武田信吉が,また信吉死後十男頼将(頼宣)が水戸城主の地位にあったが,この2代の間は水戸藩とはいわない。藩主は頼房以後,光圀(みつくに),綱条(つなえだ),宗尭,宗翰,治保,治紀,斉脩,斉昭,慶篤と続き,11代昭武のとき廃藩置県となった。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

水戸藩
みとはん
常陸(ひたち)国(茨城県)水戸を本拠にした徳川親藩で、尾張(おわり)・紀伊とともに御三家(ごさんけ)の一つ。1602年(慶長7)佐竹氏の秋田移封後、家康の第5子武田信吉(のぶよし)、第10子徳川頼将(よりまさ)(頼宣(よりのぶ))を経て、1609年第11子頼房(よりふさ)が25万石の城主となったのに始まる。北関東の一拠点として、東北諸藩に備えるための新規取り立ての藩であり、その基礎が固まるのは3代将軍家光(いえみつ)のころである。水戸家は尾張・紀伊家と異なり参勤交代を免除され、江戸の小石川邸に常住する定府(じょうふ)制で、ここから、俗称としての副将軍の名がおこったと考えられる。
 水戸藩は頼房の子孫が断絶することなく光圀(みつくに)、綱条(つなえだ)、宗堯(むねたか)、宗翰(むねもと)、治保(はるもり)、治紀(はるとし)、斉脩(なりのぶ)、斉昭(なりあき)、慶篤(よしあつ)、昭武(あきたけ)と続き、また一度も国替がなかった。しかし領地は常陸と東北地方の境で、耕地は少なく生産力も低かった。1622年(元和8)3万石加増で、28万石となるが、1641年(寛永18)初めて全領検地を実施して、36万石余の石高(こくだか)を検出し、3代藩主綱条時代から35万石を公称した。2代藩主光圀は『大日本史』の編纂(へんさん)のため多くの学者を集め、また文化事業をおこして、独特の教学=水戸学のもとを開いた。だが光圀の死後は出費増大と農村疲弊のため財政難に陥り、これを打開しようとした水戸宝永(ほうえい)の改革も失敗した。6代藩主治保時代から在地の学者が輩出し、藤田幽谷(ゆうこく)に代表される藩政改革論が高まる。9代藩主斉昭は幽谷門下の藤田東湖(とうこ)・会沢正志斎(せいしさい)ら有能な人材を登用し、幕府・諸藩に先駆けて天保(てんぽう)の改革を実施した。改革は水戸学とともに全国的に大きな影響を与えたが、改革をめぐって藩論が分裂し、1844年(弘化1)斉昭以下改革派は幕府から処断された。改革派中の激派はのちに大老井伊直弼(なおすけ)を桜田門外に襲撃し、党争の激化を招く。藩内抗争は斉昭の死後一段と激しく混乱状態に陥って時勢の指導権を失い、明治維新を迎えた。1871年(明治4)廃藩、水戸県を経て茨城県に編入された。[佐久間好雄]
『『水戸市史』全4冊(1964~76・水戸市) ▽水戸徳川家編『水戸藩史料』全5冊(1915~17・吉川弘文館)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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旺文社日本史事典 三訂版

水戸藩
みとはん
江戸時代,常陸 (ひたち) (茨城県)茨城郡を領有した徳川氏の親藩。尾張・紀伊と並んで御三家の一つ
徳川家康の子頼房が1609年入封し初代藩主。最初25万石,のち35万石で,廃藩置県に至った。2代光圀 (みつくに) は彰考館を設立し『大日本史』編修事業にあたり,大義名分を重んずる水戸学をおこした。9代斉昭 (なりあき) の代には尊王攘夷論を唱導し,藤田東湖・会沢正志斎らは代表的学者として,藩政の改革にも参画。斉昭死後,尊攘派と佐幕派に藩内が二分し,深刻な対立を生じ(天狗党の乱),戊辰 (ぼしん) 戦争では将軍慶喜 (よしのぶ) が水戸家出身であるため苦境に立った。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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