●水軍【すいぐん】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
水軍
すいぐん
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デジタル大辞泉
すい‐ぐん【水軍】
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世界大百科事典 第2版
すいぐん【水軍】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
水軍
すいぐん
海賊衆、警固衆、船手(ふなて)衆、船手方、船手組などと称され、室町~戦国時代の大名に付属して海上業務に従事した軍事集団。その前身は、海上の諸権益に生活の基盤を置く海賊である場合が多い。彼らを水軍へと組織化する一つの契機は、室町幕府が遣明船(けんみんせん)を派遣するにあたって、海賊の被害を防御する目的で、海辺の守護や有力土豪に警固を命じたことにある。備後(びんご)の守護山名(やまな)氏は領国内の因島(いんのしま)に根拠を置いた村上氏に、また豊後(ぶんご)の守護大友(おおとも)氏は、のちに大友水軍として活動することになる、国東(くにさき)半島の海辺土豪岐部(きべ)・富来(とみく)・櫛来(くしき)の3氏に渡唐船の警固を命じている。その後、因島村上氏は応仁(おうにん)の乱(1467~77)のとき山名氏に属して戦功をあげている。安芸(あき)の守護武田氏は1495年(明応4)4月、警固衆の白井氏に「安芸国仁保島海上諸公事(くじ)」を安堵(あんど)している。このように守護大名は海辺土豪の保有する海上諸権益の知行・安堵を通じて彼らと主従関係を結び、守護被官の水軍として位置づけた。
戦国大名のなかには守護の警固衆をそのまま引き継いだ者もいたが、水軍の施策は積極的に進められた。安芸の毛利氏、豊後の大友氏、相模(さがみ)の後北条(ごほうじょう)氏、甲斐(かい)の武田氏が水軍を組織した戦国大名として著名である。毛利氏は天文(てんぶん)10年代(1541~50)から安芸国佐東(さとう)郡に、水軍を動員するための給地である「警固料」「舟方給」を設定して、自己の権力と直結した水軍を育成し、領国の拡大につれて周防国(すおうのくに)大島郡の屋代島(やしろじま)に水軍基地を増設した。毛利氏と対抗した豊後の大友氏は守護時代国東半島の海辺土豪を警固衆としたが、とりわけ海辺の直轄地である海部(あま)郡の佐賀(さが)郷や津久見(つくみ)、速見(はやみ)郡の日出(ひじ)浦などに居住する海辺土豪の諸役を免除して水軍の役目を課した。若林氏は、佐賀郷一尺屋(いっしゃくや)を根拠とした大友氏の直属水軍である。相模後北条氏は永禄(えいろく)年間(1558~70)紀伊の海賊衆梶原(かじわら)氏を招いて水軍の将とした。天正(てんしょう)年間(1573~92)梶原氏は乗組衆などを仕立てるための土地を後北条氏から給されている。甲斐武田氏は1568年(永禄11)ごろ、駿河(するが)に侵入して今川氏の旧領を手中にすると、伊勢(いせ)の海賊衆小浜(おばま)氏を水軍の将とした。豊臣(とよとみ)政権の船手衆のなかには中世海賊衆の系譜をもつ石井氏、菅(かん)氏、九鬼(くき)氏らがいたが、その中心は豊臣政権の上昇に伴って大名になった子飼い大名の船手衆である藤堂(とうどう)氏、脇坂(わきざか)氏、加藤氏らにあった。海賊の存在は1588年(天正16)に出された「海上賊船禁止令」によって否定され、統一政権の水軍は強化された。なお近世大名治下では参勤、上洛(じょうらく)など、おおむね藩の海上交通や船舶に関する業務を行った。
[宇田川武久]
『宇田川武久著『瀬戸内水軍』(教育社歴史新書)』▽『宇田川武久著『日本の海賊』(1983・誠文堂新光社)』
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精選版 日本国語大辞典
すい‐ぐん【水軍】
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