●永享の乱【えいきょうのらん】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
永享の乱
えいきょうのらん
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デジタル大辞泉
えいきょう‐の‐らん〔エイキヤウ‐〕【永享の乱】
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世界大百科事典 第2版
えいきょうのらん【永享の乱】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
永享の乱
えいきょうのらん
1438年(永享10)から翌年にかけ、鎌倉公方(くぼう)足利持氏(あしかがもちうじ)が室町幕府に背いた事件。持氏は上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)の乱などで混乱した鎌倉府の支配体制を立て直そうとし、強圧的に東国の諸氏族に臨んだため、彼らとの対立が激化した。また将軍継嗣(けいし)問題の際、選ばれなかったことから公然と反幕府行動をとり始め、今川氏の家督相続問題、村上、小笠原(おがさわら)両氏の抗争などに介入、幕府と対立し、これを戒める関東管領(かんれい)上杉憲実(のりざね)とも円滑にいかなくなった。幕府はこのような持氏の動きに対し、篠川(ささがわ)御所足利満直(みつただ)への働きかけ、関東扶持衆(ふちしゅう)の設置などにより持氏を牽制(けんせい)していたが、持氏の憲実への追討軍派遣をみるに至り持氏の討伐を決め、今川、武田、小笠原などの諸氏に出陣を命じた。その結果持氏軍の多くの将兵は幕府側に移り、鎌倉を守っていた三浦時高(みうらときたか)も離反したため、持氏は憲実軍の長尾忠政に降参し、鎌倉の永安寺に幽閉され、39年2月に自殺させられた。これにより乱はいちおう終息し、鎌倉公方による実質的な関東支配は終わった。しかしこの乱は、こののち長く東国社会に影響を与え、結城(ゆうき)合戦、足利成氏(しげうじ)の公方就任、それに伴う享徳(きょうとく)の大乱、そして古河(こが)公方の成立など、東国に不安定な政情を現出させる要因となった。
[小要 博]
『渡辺世祐著『関東中心足利時代之研究』(1971・新人物往来社)』▽『神奈川県県民部県史編集室編『神奈川県史 通史編1』(1981・財団法人神奈川県弘済会)』
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精選版 日本国語大辞典
えいきょう【永享】 の 乱(らん)
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旺文社日本史事典 三訂版
永享の乱
えいきょうのらん
持氏は将軍足利義持の死後,将軍職を望んだが,義教 (よしのり) が還俗 (げんぞく) して6代将軍になると,幕府と対立,これをいさめる関東管領上杉憲実 (のりざね) とも不和となり争いがおこった。幕府はこれを機に持氏征討を決し,今川・武田・小笠原氏らの大軍を派遣したので,持氏は自殺(1439)。
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