●永田徳本【ながたとくほん】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
永田徳本
ながたとくほん
[没]寛永7(1630)? 信濃
室町時代末期から江戸時代初期の医師。徳本流の祖。知足斎と号す。出生地不明。諸国を周遊したが,甲斐にいることが多かったので,甲斐の徳本という。出羽の僧残夢を師とし,中国の医方を玉鼎に受けたと伝えられる。首に薬袋を吊り,ウシにまたがり「1服 18文」と呼んで回り,貧富を問わず病人を救ったといわれる。将軍徳川秀忠の病をなおし,18文のみを求めたという。徳本流の医書として『梅花無尽蔵』などがある。
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デジタル大辞泉
ながた‐とくほん【永田徳本】
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus
永田徳本 ながた-とくほん
永正(えいしょう)10年生まれ。張仲景の古医方をおもんじた。経歴は伝説的で,薬袋を首にかけ「甲斐(かい)の徳本1服18文(一説に16文)」と諸国をうりあるき,2代将軍徳川秀忠(ひでただ)の病気をなおしたときも18文しかうけとらなかったという。寛永7年2月14日死去。118歳。姓は長田とも。号は知足斎(ちそくさい),乾室,茅庵(ぼうあん)。著作に「医之弁」「知足斎医鈔」など。
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世界大百科事典 第2版
ながたとくほん【永田徳本】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
永田徳本
ながたとくほん
生没年不詳。戦国時代末期から江戸前期の医家。いわゆる隠医で、伝記、所説とも不確かな部分が多い。出生地は不明だが、永正(えいしょう)年間(1504~1521)に生まれ、寛永(かんえい)年間(1624~1644)に没し、117歳または118歳の長寿であったという。知足斎、乾堂と号す。長田徳本とも書く。戦火を逃れて諸国を巡遊し、その間、甲斐(かい)国(山梨県)にもっとも長く滞留したことから甲斐徳本(かいのとくほん)ともよばれた。初め、当時盛んな後世(ごせい)家医方を学んだが、これに飽き足らず独自の医説をたて、中国後漢(ごかん)の張仲景(ちょうちゅうけい)の医説によるべきことを主張した。疾病は鬱滞(うったい)に起因し、多くは風寒によって発病すると説き、いわゆる汗・吐・下・和の治療法を唱え、作用の激しい薬を用いて病気を攻撃することを主旨とした。張仲景の『傷寒論』のなかの方則はこのとき初めて日本で行われたといえる。独自の処世訓をもち、医家の風俗矯正に熱心であった。『医之弁(いのべん)』『知足斎医鈔(いしょう)』ほかの著作がある。
[大鳥蘭三郎]
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精選版 日本国語大辞典
ながた‐とくほん【永田徳本】
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