@niftyトップ

辞書、事典、用語解説などを検索できる無料サービスです。

池田光政【いけだ みつまさ】

美術人名辞典

池田光政
江戸前期の備前岡山藩主。利隆の子。初名は幸隆。父歿後、播磨藩を継ぐが、幼少を理由に減封され鳥取城へ移る。元和9年(1623)将軍徳川家光の偏諱をうけて光政と称する。のち鳥取から岡山に入城、三十一万五千余石を領する。幼時より学を好み、中江藤樹を慕う。藤樹歿後は熊沢蕃山を国政顧問として重用する。諸制を改革文武を奨励し藩政改革に尽力する。天和2年(1682)歿、74才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

いけだ‐みつまさ【池田光政】
[1609~1682]備前岡山藩主。輝政藩政改革に熊沢蕃山(くまざわばんざん)登用閑谷黌(しずたにこう)創建儒教を重んじ、新田開発・殖産興業に努めた。

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plus

池田光政 いけだ-みつまさ
1609-1682 江戸時代前期の大名。
慶長14年4月4日生まれ。池田利隆の長男。元和(げんな)2年播磨(はりま)(兵庫県)姫路藩主池田家3代,翌年32万石に減ぜられて因幡(いなば)鳥取藩主。寛永9年従弟池田光仲との国替えにより備前岡山藩主池田家初代となる。31万5000石。熊沢蕃山(くまざわ-ばんざん)をまねいて仁政につとめ,質素倹約の「備前風」を奨励。津田永忠を登用して新田開発をすすめ,藩校花畠教場や郷学(ごうがく)閑谷(しずたに)学校を開設した。天和(てんな)2年5月22日死去。74歳。初名は幸隆(よしたか)。日記に「池田光政日記」。
【格言など】恩なければも無用のものなり,威なければ恩信も用に立たず(「池田光政日記」)

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

いけだみつまさ【池田光政】
1609‐82(慶長14‐天和2)
江戸初期の外様大名。父は姫路城主利隆,母は榊原康政の次女鶴子で,利隆が岡山城主の弟忠継の代理で〈備前監国〉として岡山在城のとき,同城内で出生した。幼名を幸隆(よしたか)といい,元服のとき将軍徳川家光の諱(いみな)の1字をもらって光政と改めた。通称を新太郎,諡(おくりな)を芳烈公といい,官名は従四位下左近衛権少将。妻勝子は本多忠刻(ただとき)と千姫の娘。1616年(元和2)遺領42万石を継いだが,間もなく幼少の理由で因幡・伯耆両国32万石に減封されて鳥取に入城した。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

大辞林 第三版

いけだみつまさ【池田光政】
1609~1682 江戸前期の大名。備前岡山藩主。熊沢蕃山ばんざんを登用し、儒教主義に基づいて藩政の改革・農事改良・学問・文化の興隆に努めた。

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

池田光政
いけだみつまさ
[生]慶長14(1609).4.4. 岡山
[没]天和2(1682).5.22. 岡山
江戸時代初期の大名。備前岡山藩主。輝政の孫。利隆の嫡男。母は徳川秀忠養女。初名は幸隆,のち将軍家光の偏諱 (へんき) を賜わって光政と改名。通称は新太郎。諡号は芳烈公。元和2 (1616) 年遺領播磨一国を継ぎ,翌3年因幡伯耆 32万石に転封され,鳥取城に拠った。同9年備前岡山を領し,侍従を経て従四位下左近衛権少将に叙任。寛文 12 (72) 年6月致仕。この間藩政をとり,名君とうたわれた。天災飢饉にそなえて殖産興業に努め,治水,開墾,農事の改良を進め,同 11年には社倉法を設けた。また学問,文化の興隆にも意を注ぎ,熊沢蕃山を登用し,寛永 18 (1641) 年花畠教場,寛文 10 (70) 年閑谷 (しずたに) 学校,延宝2 (74) 年聖堂などを創建した。『池田光政日記』 (37~69) のほか編著に『三書要語解』,合著に『帝鑑評』がある。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)

池田光政
いけだみつまさ
(1609―1682)
江戸初期の著名な外様(とざま)大名で岡山藩主。慶長(けいちょう)14年4月4日岡山城で生まれる。父は利隆(としたか)、母は榊原康政(さかきばらやすまさ)の次女鶴子(法号福照院)。幼名を幸隆(よしたか)といい、元服のとき将軍徳川家光の諱(いみな)の一字をもらって光政と改め、通称は新太郎、諡(おくりな)を芳烈公(ほうれつこう)といった。1603年(慶長8)以降池田家が岡山藩31万5000石を領知したが、光政は1616年(元和2)父の遺領を継いで姫路藩主(42万石)となり、翌1617年鳥取藩主(32万石)に転じ、1632年(寛永9)第3代岡山藩主となった。妻は本多忠刻(ただとき)と将軍秀忠(ひでただ)の娘千姫(せんひめ)との間に生まれた勝子(法号円盛院)である。光政は1672年(寛文12)に致仕(ちし)したが、天和(てんな)2年5月22日死去するまで藩政に関与したので、前後50年間、岡山藩政全般の確立を主導したわけである。素質は明敏で治国の要諦(ようたい)を学問に求め、家臣熊沢次郎八(くまざわじろはち)(蕃山(ばんざん))らについて儒学を修め、仁政の実現に努め質素倹約の「備前風(びぜんふう)」を奨励普及した。とくに民政に意を注ぎ、津田重二郎(永忠(ながただ))を起用して藩営新田の造成を図り、また、政治と学問・教育の一体化を図る見地から、士庶の教育に異常な熱意を注ぎ、藩校(城下)のほか郷学(ごうがく)(和気(わけ)郡)としての閑谷黌(しずたにこう)(遺構現存)を創建したことは特筆に値する。また、儒教的な合理主義の立場から、幕政に準じない独自の寺社政策を断行した。この啓蒙(けいもう)的な権威主義の「名君」は、和気郡和意(わい)谷の墓地に儒礼で埋葬され、閑谷学校内の芳烈祠(し)(現、閑谷神社)には、金銅坐像(ざぞう)が安置されている。[谷口澄夫]
『石坂善次郎編『池田光政公伝』上下(1932) ▽谷口澄夫著『池田光政』(1961・吉川弘文館) ▽藤井駿・水野恭一郎・谷口澄夫編著『池田光政日記』(1967・山陽図書出版)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

367日誕生日大事典

池田光政 (いけだみつまさ)
生年月日:1609年4月4日
江戸時代前期の大名
1682年

出典:日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」
(C) Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

精選版 日本国語大辞典

いけだ‐みつまさ【池田光政】
江戸前期の備前岡山藩主。輝政の孫。熊沢蕃山を用い、諸制度を整え、農産業を開発し、学問の興隆をはかった。慶長一四~天和二年(一六〇九‐八二

出典:精選版 日本国語大辞典
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

旺文社日本史事典 三訂版

池田光政
いけだみつまさ
1609〜82
江戸前期の備前岡山藩主
輝政の孫。57年間にわたり藩政改革に尽力し,名君といわれた。儒教主義に基づき殖産興業・農業改良に努力,また士民の教育を推進し,熊沢蕃山を用い,花畠教場・閑谷 (しずたに) 学校を創設した。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
執筆者一覧(50音順)
金澤利明 竹内秀一 藤野雅己 牧内利之 真中幹夫
 
Copyright Obunsha Co.,Ltd. All Rights Reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

池田光政」の用語解説はコトバンクが提供しています。

池田光政の関連情報

他サービスで検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.

アット・ニフティトップページへ アット・ニフティ会員に登録

ウェブサイトの利用について | 個人情報保護ポリシー
©NIFTY Corporation