●池田光政【いけだ みつまさ】
美術人名辞典
池田光政
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デジタル大辞泉
いけだ‐みつまさ【池田光政】
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus
池田光政 いけだ-みつまさ
慶長14年4月4日生まれ。池田利隆の長男。元和(げんな)2年播磨(はりま)(兵庫県)姫路藩主池田家3代,翌年32万石に減ぜられて因幡(いなば)鳥取藩主。寛永9年従弟池田光仲との国替えにより備前岡山藩主池田家初代となる。31万5000石。熊沢蕃山(くまざわ-ばんざん)をまねいて仁政につとめ,質素倹約の「備前風」を奨励。津田永忠を登用して新田開発をすすめ,藩校花畠教場や郷学(ごうがく)閑谷(しずたに)学校を開設した。天和(てんな)2年5月22日死去。74歳。初名は幸隆(よしたか)。日記に「池田光政日記」。
【格言など】恩なければ威も無用のものなり,威なければ恩信も用に立たず(「池田光政日記」)
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世界大百科事典 第2版
いけだみつまさ【池田光政】
江戸初期の外様大名。父は姫路城主利隆,母は榊原康政の次女鶴子で,利隆が岡山城主の弟忠継の代理で〈備前監国〉として岡山在城のとき,同城内で出生した。幼名を幸隆(よしたか)といい,元服のとき将軍徳川家光の諱(いみな)の1字をもらって光政と改めた。通称を新太郎,諡(おくりな)を芳烈公といい,官名は従四位下左近衛権少将。妻勝子は本多忠刻(ただとき)と千姫の娘。1616年(元和2)遺領42万石を継いだが,間もなく幼少の理由で因幡・伯耆両国32万石に減封されて鳥取に入城した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
池田光政
いけだみつまさ
[没]天和2(1682).5.22. 岡山
江戸時代初期の大名。備前岡山藩主。輝政の孫。利隆の嫡男。母は徳川秀忠の養女。初名は幸隆,のち将軍家光の偏諱 (へんき) を賜わって光政と改名。通称は新太郎。諡号は芳烈公。元和2 (1616) 年遺領播磨一国を継ぎ,翌3年因幡伯耆 32万石に転封され,鳥取城に拠った。同9年備前岡山を領し,侍従を経て従四位下左近衛権少将に叙任。寛文 12 (72) 年6月致仕。この間藩政をとり,名君とうたわれた。天災,飢饉にそなえて殖産興業に努め,治水,開墾,農事の改良を進め,同 11年には社倉法を設けた。また学問,文化の興隆にも意を注ぎ,熊沢蕃山を登用し,寛永 18 (1641) 年花畠教場,寛文 10 (70) 年閑谷 (しずたに) 学校,延宝2 (74) 年聖堂などを創建した。『池田光政日記』 (37~69) のほか編著に『三書要語解』,合著に『帝鑑評』がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
池田光政
いけだみつまさ
(1609―1682)
江戸初期の著名な外様(とざま)大名で岡山藩主。慶長(けいちょう)14年4月4日岡山城で生まれる。父は利隆(としたか)、母は榊原康政(さかきばらやすまさ)の次女鶴子(法号福照院)。幼名を幸隆(よしたか)といい、元服のとき将軍徳川家光の諱(いみな)の一字をもらって光政と改め、通称は新太郎、諡(おくりな)を芳烈公(ほうれつこう)といった。1603年(慶長8)以降池田家が岡山藩31万5000石を領知したが、光政は1616年(元和2)父の遺領を継いで姫路藩主(42万石)となり、翌1617年鳥取藩主(32万石)に転じ、1632年(寛永9)第3代岡山藩主となった。妻は本多忠刻(ただとき)と将軍秀忠(ひでただ)の娘千姫(せんひめ)との間に生まれた勝子(法号円盛院)である。光政は1672年(寛文12)に致仕(ちし)したが、天和(てんな)2年5月22日死去するまで藩政に関与したので、前後50年間、岡山藩政全般の確立を主導したわけである。素質は明敏で治国の要諦(ようたい)を学問に求め、家臣熊沢次郎八(くまざわじろはち)(蕃山(ばんざん))らについて儒学を修め、仁政の実現に努め質素倹約の「備前風(びぜんふう)」を奨励普及した。とくに民政に意を注ぎ、津田重二郎(永忠(ながただ))を起用して藩営新田の造成を図り、また、政治と学問・教育の一体化を図る見地から、士庶の教育に異常な熱意を注ぎ、藩校(城下)のほか郷学(ごうがく)(和気(わけ)郡)としての閑谷黌(しずたにこう)(遺構現存)を創建したことは特筆に値する。また、儒教的な合理主義の立場から、幕政に準じない独自の寺社政策を断行した。この啓蒙(けいもう)的な権威主義の「名君」は、和気郡和意(わい)谷の墓地に儒礼で埋葬され、閑谷学校内の芳烈祠(し)(現、閑谷神社)には、金銅坐像(ざぞう)が安置されている。
[谷口澄夫]
『石坂善次郎編『池田光政公伝』上下(1932)』▽『谷口澄夫著『池田光政』(1961・吉川弘文館)』▽『藤井駿・水野恭一郎・谷口澄夫編著『池田光政日記』(1967・山陽図書出版)』
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367日誕生日大事典
池田光政 (いけだみつまさ)
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精選版 日本国語大辞典
いけだ‐みつまさ【池田光政】
出典:精選版 日本国語大辞典
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旺文社日本史事典 三訂版
池田光政
いけだみつまさ
江戸前期の備前岡山藩主
輝政の孫。57年間にわたり藩政改革に尽力し,名君といわれた。儒教主義に基づき殖産興業・農業改良に努力,また士民の教育を推進し,熊沢蕃山を用い,花畠教場・閑谷 (しずたに) 学校を創設した。
出典:旺文社日本史事典 三訂版
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