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池田氏【いけだうじ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

池田氏
いけだうじ
江戸時代の外様大名清和源氏。源頼光4代の孫仲政より出たという。池田の名はその地名によるが,美濃国池田荘からとも摂津国池田荘からともいわれる。戦国時代,池田恒利は,織田信秀に仕え,その子信輝は信長に仕えた。本能寺の変後,信輝の子輝政は豊臣秀吉に仕え,天正 18 (1590) 年には三河吉田に 15万石を領し,関ヶ原の役後は播磨姫路 52万石に封じられ,慶長8 (1603) 年には備前を,同 15年には淡路をも加え,総高 89万 9000石となった。同 18年には,長男利隆に播磨,次男忠継に備前,3男忠雄に淡路を分封。元和1 (15) 年,忠継の死により忠雄が備前を継いだ。播磨の池田氏は光政のとき,因幡鳥取に移封されたが,寛永9 (32) 年,光政は鳥取から備前岡山に移り,忠雄の子光仲が岡山から鳥取に移った。そののち,それぞれの子孫相継ぎ,明治にいたって,岡山,鳥取両家とも侯爵。初期の分家旗本となった池田氏もある。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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世界大百科事典 第2版

いけだうじ【池田氏】
(1)南北朝・室町・戦国期の摂津の国人。橘諸兄の後裔とする伝承があるが不詳。1363年(正平18∥貞治2)の幕府文書に摂津守護赤松光範の被官として池田親政とあるのが初見。南北朝中期,守護より加茂庄(現,兵庫県川西市)の半済地をあてがわれ,また垂水西牧小曾禰村(現,豊中市)の番頭にも名がみえる。室町期には守護細川氏の有力被官となり,伊丹,吹田両氏と並ぶ摂津屈指の土豪に成長した。加茂,垂水のほか,細川庄,桜井郷など各荘園の代官を兼ね,給分を資本に高利貸も行って,応仁の乱ころは年収1万2000貫,〈富貴無双〉とうたわれた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

池田氏
いけだうじ

池田荘(いけだのしょう)、池田郷などの地名にちなんだ氏族。美濃国(みののくに)(岐阜県)池田郡池田荘から興った池田氏、摂津国(大阪府)豊島(てしま)郡池田から出た池田氏、伊予国(愛媛県)周敷(すふ)郡池田郷から出た池田氏など。江戸時代初期に姫路藩主となった池田氏がとくに有名である。その祖は摂津池田氏とする説もあるが、1821年(文政4)美濃国池田庄(しょう)本郷村の龍徳寺境内から、池田家の祖恒利(つねとし)の戒名「養源院殿心光宗伝禅定門」と刻まれた五輪塔が発見されていることから、美濃池田氏と考えられる。その遠祖は源頼光(よりみつ)4代の孫泰政(やすまさ)で、初めて池田を称したという。泰政の9代の孫教依(のりより)は内藤満之の娘を娶(めと)った。彼女は、最初楠木正行(くすのきまさつら)に嫁したが、その討ち死にののち教依に再嫁した。その産むところの教正は正行の子と信じられ、池田氏楠胤(なんいん)説は池田光政(みつまさ)以後根強く続いた。教正の5代の孫が恒利である。その妻養徳院は織田信長の乳母(うば)となり、恒利の子信輝(のぶてる)(恒興(つねおき))は信長に仕え、本能寺の変後は羽柴秀吉(はしばひでよし)(豊臣秀吉(とよとみひでよし))に加担した。信輝の子輝政は最初秀吉に仕えたが、徳川家康の娘富子(良正院、督姫(とくひめ))を継室に迎えて家康の信任を得た。関ヶ原の戦いの恩賞として播磨(はりま)52万石を賜って姫路藩主となり、ついで次男忠継(ただつぐ)に備前(びぜん)28万石、三男忠雄(ただかつ)に淡路6万石を賜り、輝政が総管したから俗称100万石といわれる。輝政の弟長吉(ながよし)も、関ヶ原の戦い後因幡(いなば)のうち6万石を賜り、鳥取藩主に封ぜられ、その子長幸のとき1617年(元和3)備中(びっちゅう)松山藩6万5000石に移されたが、その子長常に継嗣(けいし)なく、1641年(寛永18)断絶。

 1613年(慶長18)輝政の死後、遺領のうち42万石を長男利隆(としたか)が相続、10万石は岡山藩主忠継に加増される。しかし忠継は1615年(元和1)死去し、弟忠雄が岡山藩主となり、忠継遺領のうち10万石を弟輝澄、政綱、輝興に分与し、宍粟(しそう)藩(3万8000石)、赤穂(あこう)藩(3万5000石)、佐用(さよ)藩(2万5000石)をたてる。忠雄は母良正院の化粧料4万石を賜り32万石を領す。1616年利隆が死去し、嫡子光政が姫路藩主となったが、幼少のため鳥取藩主32万石に移される。1632年(寛永9)岡山藩主忠雄が死去し、嫡子光仲幼少のため、同年光政、光仲に国替(くにがえ)を命ぜられ、以後光政の子孫は岡山藩主、光仲の子孫は鳥取藩主を世襲して明治維新に至る。

[柴田 一]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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旺文社日本史事典 三訂版

池田氏
いけだし
戦国〜江戸時代の大名。備前岡山・因幡鳥取藩
永禄年間(1558〜70),恒利 (つねとし) が織田信秀に仕え,子の恒興(信輝)は織田信長・豊臣秀吉の部将として活躍。その子輝政は関ケ原の戦いで徳川家康についてをあげ,播磨国52万石を領し姫路城主,のち備前・淡路を加封された。輝政の3子に3国を分封したが,孫の光仲が鳥取32万石,光政が岡山31万石を領した。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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