●池田氏【いけだうじ】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
池田氏
いけだうじ
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世界大百科事典 第2版
いけだうじ【池田氏】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
池田氏
いけだうじ
池田荘(いけだのしょう)、池田郷などの地名にちなんだ氏族。美濃国(みののくに)(岐阜県)池田郡池田荘から興った池田氏、摂津国(大阪府)豊島(てしま)郡池田から出た池田氏、伊予国(愛媛県)周敷(すふ)郡池田郷から出た池田氏など。江戸時代初期に姫路藩主となった池田氏がとくに有名である。その祖は摂津池田氏とする説もあるが、1821年(文政4)美濃国池田庄(しょう)本郷村の龍徳寺境内から、池田家の祖恒利(つねとし)の戒名「養源院殿心光宗伝禅定門」と刻まれた五輪塔が発見されていることから、美濃池田氏と考えられる。その遠祖は源頼光(よりみつ)4代の孫泰政(やすまさ)で、初めて池田を称したという。泰政の9代の孫教依(のりより)は内藤満之の娘を娶(めと)った。彼女は、最初楠木正行(くすのきまさつら)に嫁したが、その討ち死にののち教依に再嫁した。その産むところの教正は正行の子と信じられ、池田氏楠胤(なんいん)説は池田光政(みつまさ)以後根強く続いた。教正の5代の孫が恒利である。その妻養徳院は織田信長の乳母(うば)となり、恒利の子信輝(のぶてる)(恒興(つねおき))は信長に仕え、本能寺の変後は羽柴秀吉(はしばひでよし)(豊臣秀吉(とよとみひでよし))に加担した。信輝の子輝政は最初秀吉に仕えたが、徳川家康の娘富子(良正院、督姫(とくひめ))を継室に迎えて家康の信任を得た。関ヶ原の戦いの恩賞として播磨(はりま)52万石を賜って姫路藩主となり、ついで次男忠継(ただつぐ)に備前(びぜん)28万石、三男忠雄(ただかつ)に淡路6万石を賜り、輝政が総管したから俗称100万石といわれる。輝政の弟長吉(ながよし)も、関ヶ原の戦い後因幡(いなば)のうち6万石を賜り、鳥取藩主に封ぜられ、その子長幸のとき1617年(元和3)備中(びっちゅう)松山藩6万5000石に移されたが、その子長常に継嗣(けいし)なく、1641年(寛永18)断絶。
1613年(慶長18)輝政の死後、遺領のうち42万石を長男利隆(としたか)が相続、10万石は岡山藩主忠継に加増される。しかし忠継は1615年(元和1)死去し、弟忠雄が岡山藩主となり、忠継遺領のうち10万石を弟輝澄、政綱、輝興に分与し、宍粟(しそう)藩(3万8000石)、赤穂(あこう)藩(3万5000石)、佐用(さよ)藩(2万5000石)をたてる。忠雄は母良正院の化粧料4万石を賜り32万石を領す。1616年利隆が死去し、嫡子光政が姫路藩主となったが、幼少のため鳥取藩主32万石に移される。1632年(寛永9)岡山藩主忠雄が死去し、嫡子光仲幼少のため、同年光政、光仲に国替(くにがえ)を命ぜられ、以後光政の子孫は岡山藩主、光仲の子孫は鳥取藩主を世襲して明治維新に至る。
[柴田 一]
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旺文社日本史事典 三訂版
池田氏
いけだし
永禄年間(1558〜70),恒利 (つねとし) が織田信秀に仕え,子の恒興(信輝)は織田信長・豊臣秀吉の部将として活躍。その子輝政は関ケ原の戦いで徳川家康について功をあげ,播磨国52万石を領し姫路城主,のち備前・淡路を加封された。輝政の3子に3国を分封したが,孫の光仲が鳥取32万石,光政が岡山31万石を領した。
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