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河東節【かとうぶし】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

河東節
かとうぶし
三味線音楽の一流派,古曲の一つ。1世江戸半太夫の高弟,1世十寸見河東 (江戸太夫河東) が,半太夫節式部節手品節などを加えて,享保2 (1717) 年に江戸で語りだしたもの。初めは歌舞伎に出演したが,常磐津節や富本節が喜ばれるようになってくると,しだいに舞台から遠ざかり,知識階級や人,札差といった富裕階級の愛玩音楽となった。その後は,舞台は歌舞伎十八番の『助六由縁江戸桜』に出演するだけとなった。浄瑠璃は品がよく,渋いところもあるが,ときに険しい節の高低もある。細棹の三味線で皮を硬く張り,冴えた音色を出す。また三味線弾きのかける掛声と,独特のスクイハジキのおもしろさを特色とする。家元は十寸見河東で,11世まで続き,11世十寸見河東没 (1919) 後は,河東節十寸見会で家元名義を保存している。なお,1949年十寸見会の推薦により,山彦米子 (本名岡田米子,1888~1959) が2世山彦文子を襲名し,同会の初代技芸総代となった。2代技芸総代は6世山彦河良 (1915~80) が務め,1991年山彦節子 (1920~ ) が3代技芸総代となった。代表曲は『助六由縁江戸桜』『乱髪夜編笠』 (『白さぎ』) 『花の栞』『道成寺』など。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル大辞泉

かとう‐ぶし【河東節】
浄瑠璃の流派の一。享保2年(1717)江戸半太夫から分かれた十寸見河東(ますみかとう)創始。優美で渋い江戸風の音曲で、古曲の一つに数えられている。

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世界大百科事典 第2版

かとうぶし【河東節】
三味線音楽の一種目。江戸節の一つ。1717年(享保2)2月に江戸太夫(十寸見(ますみ))河東が江戸市村座で《松の内》を語ったのをはじめとする。それ以前の江戸には,初め江戸肥前掾の肥前節,ついで弟子江戸半太夫の半太夫節が流行したが,初世十寸見河東は江戸半太夫の弟子。以上の肥前節,半太夫節と河東節を江戸節といったが,河東節だけが今日に残り,江戸生れ江戸育ちの浄瑠璃という誇りをもっている。河東の名は9世までが有名で,ほかに三味線の山彦源四郎,山彦河良(かりよう)が知られている。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

かとうぶし【河東節】
江戸浄瑠璃の一。享保年間(1716~1736)、十寸見ますみ河東が半太夫節から分かれて創始。曲風は優美で渋く、生っ粋の江戸風。代表曲「助六」「水調子」「松の内」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

河東節
かとうぶし
浄瑠璃(じょうるり)の流派名。一中節(いっちゅうぶし)、宮薗(みやぞの)節、荻江(おぎえ)節とともに古曲とよばれている。江戸太夫(だゆう)河東(十寸見(ますみ)河東とも称す)が1717年(享保2)に始めた江戸根生(ねおい)の音曲で、廃絶した肥前(ひぜん)節、半太夫(はんだゆう)節をも含め「江戸節」と総称する。流祖河東(1684―1725)は江戸日本橋の豪商天満屋藤左衛門の子で藤十郎といい、江戸半太夫の門弟であったが、師の節を柔らげ、「式部節」(貞享(じょうきょう)・元禄(げんろく)時代(1684~1704)ころ、広瀬式部太夫が始めた上品な浄瑠璃。現存しておらず、実態は不明)「手品節」(元禄時代(1688~1704)ころ、手品市左衛門が始めた上品な浄瑠璃)の上品な曲風に影響を受け、節付けに加味して一流を創始した。その三味線方は初世山彦源四郎で、特色が顕著になったのは1722年(享保7)以降とみられる。当初は庶民的なものとして迎えられたが、のちには文人や富裕階級の支援のもとに存続された結果、内容・形式ともに固定化の傾向に陥った。
 河東の名は流祖以後、大正期の11世まであるが、8世以降は死後の追贈である。その代々をみると、2世(?―1734)は流祖の高弟河(かじょう)が、3世(?―1745)は2世の門弟河洲(かしゅう)が相継ぎ、4世(?―1771)は3世の甥(おい)伝之助が襲名した。この4世河東が1761年(宝暦11)市村座で語ったのが『助六所縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』で、これは助六浄瑠璃の決定版となり、河東節の代表曲となって今日まで伝えられている。現在でも歌舞伎十八番のうち、成田屋(市川団十郎(だんじゅうろう)家)の「助六」といえば河東節がつきものである。5世(?―1776)は3世の門弟沙洲(さしゅう)が、6世(1727―96)は兄弟弟子の蘭示(らんじ)が継いだ。3世から6世に至る約60年が河東節の全盛期である。7世(1762―1825)は6世の門弟3世沙洲(1812年隠居して2世東雲(とううん))、8世(1780―1817/20)は7世の弟子と受け継がれた。9世(1806―72)は4世山彦河良(かりょう)の門弟金次郎が家元を名のったが、社中の苦情から剃髪(ていはつ)して可慶(かけい)と改め、没後改めて9世を追号された。10世は可慶の妻女ともいうが、不明。11世(1841―1919)は可慶の子秀次郎(後の秀翁(しゅうおう))である。他方、9世(可慶)の門弟栄子が中心となり、明治時代に藤岡派と称して伝承に尽力した。この時代に物理学者田中正平の指導により山田舜平(吉住小十郎(よしずみこじゅうろう))が秀翁、栄子の伝承曲を五線譜に作成した。秀翁(11世)没後は家元をたてず、「十寸見会」を組織して流派の保存を図った。第二次世界大戦後は山彦米子(よねこ)が2世文子(ぶんし)(?―1959)と改名し初代の技能総代となり、ついで6世山彦河良(1915―80)が1971年(昭和46)に2代目に選ばれた。
 楽曲の特色は語りを揺らせて抑揚をつけるユリ節の興味を本体とし、三味線は細棹(ほそざお)を用いる。スクイバチやハジキを巧みに活用し、独得の風韻が備わっている。なお、寛政(かんせい)~文化(ぶんか)(1789~1818)のころ、山田流箏曲(そうきょく)の流祖山田斗養一(とよいち)の作曲に多大の影響を与えたことが注目される。[林喜代弘・守谷幸則]
『町田佳聲著『ラジオ邦楽の鑑賞』(1950・日本放送出版協会) ▽竹内道敬編『河東節二百五十年』(1967・同書刊行会)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

かとう‐ぶし【河東節】
〘名〙 江戸浄瑠璃の流派の一つ。享保二年(一七一七)、十寸見河東(ますみかとう)が江戸半太夫の門から分かれて語り始めた、派手で明るい江戸風の音曲。細棹(ほそざお)の三味線を使用。通人芸となり、今は古曲の一流派。河東浄瑠璃。河東。

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旺文社日本史事典 三訂版

河東節
かとうぶし
江戸中期から発達した浄瑠璃節の一派
享保(1716〜36)のころ,十寸見河東 (ますみかとう) が師江戸半太夫の半太夫節からくふうして創始。優美で典雅章句・曲節が江戸の気風に合って流行した。浄瑠璃節としては初めて歌舞伎と組んだが,座敷芸旦那芸として盛行した。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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