@niftyトップ

辞書、事典、用語解説などを検索できる無料サービスです。

津山藩【つやまはん】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

津山藩
つやまはん
江戸時代,美作国 (岡山県) 津山地方を領有した。慶長8 (1603) 年に森忠政信濃 (長野県) 川中島から 18万 6500石で入封,元禄 10 (97) 年の除封まで森氏が在封,森氏は再興して備中 (岡山県) 西江原へ移封,代って松平 (結城) 宣富が 10万石で新封,廃藩置県にいたった。松平氏家門,江戸城大広間詰。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉プラス

津山藩
美作国、津山(:△岡山県津山市▽)周辺を領有した藩。慶長年間、森忠政(森蘭丸の)が美作国18万6000石を与えられて入封、津山城を築き、城下町を整備した。森氏5代の衆利(あつとし)が乱心のため領地没収となり、後には家門の松平(越前)氏が入って幕末まで統治した。津山城(鶴山城)は国指定史跡。

出典:小学館
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

藩名・旧国名がわかる事典

つやまはん【津山藩】
江戸時代美作(みまさか)国西西条郡津山(現、岡山県津山市)に藩庁をおいた、初め外様(とざま)藩、のち親藩(しんぱん)。藩校は学問所。1603年(慶長(けいちょう)8)、信濃(しなの)国川中島から森忠政(ただまさ)(森蘭丸(らんまる)の弟)が美作1国18万6500石を与えられて入封(にゅうほう)し立藩。忠政は津山城の築城と城下町の建設、検地を実施するが、5代衆利(あつとし)が参勤途上で発狂し、領地没収となった。98年(元禄11)、家門(かもん)の松平(越前)長矩(ながのり)(のち宣富(のぶとみ))が美作国のうち10万石を与えられて入封。以後明治維新まで、松平(越前)氏9代が続いた。長矩が入封した年に高倉(たかくら)騒動と呼ばれる百姓一揆が発生、1726年(享保(きょうほう)11)には山中(さんちゅう)一揆、幕末には改政一揆が起こるなど政情は常に不安定だった。1871年(明治4)の廃藩置県で津山県となり、その後、北条県を経て、76年岡山県に編入された。

出典:講談社
(C)Kodansha 2011.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版

つやまはん【津山藩】
美作(みまさか)国(岡山県)津山に藩庁を置いた藩。初期は外様,中期以降は家門中藩。1603年(慶長8)森忠政が朱印高18万6500石の美作一国を与えられ,信州川中島から移封されて立藩した。彼は新規に津山城を築き,領内各地から商人,職人を集めて城下町を経営するとともに慶長検地を行い,また国衆の土着した土豪地主の懐柔に努め,頭百姓の格を与え,大庄屋肝煎,庄屋などに取り立て,地方支配の体制強化に尽力した。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

日本大百科全書(ニッポニカ)

津山藩
つやまはん
美作(みまさか)国津山(岡山県津山市)地方を領有した藩。1603年(慶長8)信州(長野県)川中島(かわなかじま)から森忠政(ただまさ)が美作一国18万6500石の領主として入封。忠政は入国し、翌年津山城の築城、城下町の建設、国内総検地などを実施した。1631年(寛永8)忠政の外孫関長継(せきながつぐ)が2代藩主となり、市中法度(はっと)、山林検地、郡制の改制などを行った。1674年(延宝2)長継は次子長義(ながよし)に3代藩主を継がせた。1686年(貞享3)長継の長子忠継(ただつぐ)の子長成(ながなり)が成長し、4代藩主となった。長成は家老長尾勝明(ながおかつあき)に命じて『作陽誌』を編纂(へんさん)させた。1695年(元禄8)幕命により江戸中野に犬小屋を建造し、藩財政は極度に窮乏した。97年長成は病死し、嗣子(しし)として長成の叔父関衆利(あつとし)(長継の実子)が幕府の認可を得たが、江戸への道中で精神に異常をきたし、森津山藩は断絶となった(隠居の元藩主長継には備中(びっちゅう)西江原2万石が与えられた)。
 1698年松平長矩(ながのり)(のち宣富(のぶとみ)、越前(えちぜん)家)が美作国のうち10万石を与えられ津山城に入った。長矩は入国と同時に農村の租率を強化したため高倉(たかくら)騒動とよばれる百姓一揆(いっき)にみまわれた。1721年(享保6)宣富が死去し、6歳の松平浅五郎(あさごろう)が封を継いだが、26年に死去し、国中は山中(さんちゅう)一揆により騒然とする。幕府は、養嗣子(ようしし)松平長煕(ながひろ)を藩主とし、領地を5万石に減じた。以後、長孝(ながたか)、康致(やすちか)、康乂(やすはる)、克孝(かつたか)、斉民(なりたみ)、慶倫(やすとも)が藩主を継承し明治維新に至っている。克孝は1817年(文化14)11代将軍徳川家斉(いえなり)の子銀之助(ぎんのすけ)(斉民)を養子としたため、5万石の加増を受けた。慶倫は維新期の諸政策を実施するが、幕末の政情不安と貢担の過重のため、改政一揆が1866年(慶応2)に起こった。71年(明治4)廃藩、津山県、北条県を経て76年岡山県に編入。[人見彰彦]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

津山藩」の用語解説はコトバンクが提供しています。

津山藩の関連情報

他サービスで検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.

アット・ニフティトップページへ アット・ニフティ会員に登録

ウェブサイトの利用について | 個人情報保護ポリシー
©NIFTY Corporation