●津軽為信【つがるためのぶ】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
津軽為信
つがるためのぶ
[没]慶長12(1607).12.7. 京都
安土桃山時代の武将。弘前藩祖。守信の子。幼名は扇。通称,右京,右京大夫。初め南部氏に属したが,南部氏が衰退すると分離して津軽地方を平定,津軽氏の基礎を築いた。のち豊臣秀吉に従って小田原征伐に加わり,4万 5000石を安堵された。関ヶ原の戦いには徳川方に属し,堀越4万 7000石となった。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus
津軽為信 つがる-ためのぶ
天文(てんぶん)19年1月1日生まれ。大浦氏をつぎ,約17年かけて陸奥(むつ)津軽地方を統一,津軽氏を名のる。関ケ原の戦いで東軍につき,陸奥高岡(のちの弘前(ひろさき))藩(青森県)藩主津軽家初代となる。4万7000石。高岡城の築城に着手するなど,発展の足がかりをきずいた。慶長12年12月5日死去。58歳。
【格言など】戦は兵の多少に寄らず,唯その主将の方略如何(いかん)にあるのみ(「津軽一統志」)
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世界大百科事典 第2版
つがるためのぶ【津軽為信】
江戸初期の大名。初代弘前藩主。実父は武田重信,後に大浦為則の養子となって大浦氏を継ぐ。初め南部を称する。幼名扇。1600年(慶長5)従五位下右京大夫。1571年(元亀2)石川城の南部高信を攻略したのを手始めとして,津軽郡内に勢力を扶植していた南部氏とその被官および北畠氏を次々と攻め滅ぼし,この統一戦争の過程で郡内の在地土豪層を被官化していった(《津軽一統志》)。1591年(天正19)豊臣政権は奥羽仕置の一環として,為信を蔵入地代官に任命し,3万石の領知高を与えた(秋田家文書)。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
津軽為信
つがるためのぶ
(1550―1607)
戦国時代の武将。弘前(ひろさき)藩(津軽藩)祖。津軽堀越(ほりこし)(弘前市)城主武田守信(もりのぶ)の長子に生まれ、18歳のとき伯父の大浦(おおうら)城主大浦為則(ためのり)の婿となり、大浦氏を称す。21歳のとき石川城を攻めて、南部氏傘下からの自立を宣し、続いて千徳(せんとく)、滝本(たきもと)、北畠(きたばたけ)、堤(つつみ)各氏らを屈服させて、津軽地方を統一。1589年(天正17)豊臣(とよとみ)秀吉から津軽三郡、合浦(がっぽ)支配を保証され、津軽右京亮(うきょうのすけ)を名のる。奥州仕置の結果、4万5000石を認可。近衛(このえ)家から牡丹丸(ぼたんまる)の紋章を受けて家紋とする。1594年(文禄3)堀越城に居城を移し、1603年(慶長8)高岡(たかおか)(弘前)築城に着手。藩政の基礎を固めたが、上洛(じょうらく)中に長子信建(のぶたけ)の後を追うように病死した。
[遠藤 巌]
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津軽為信 (つがるためのぶ)
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