●浄土真宗【じょうどしんしゅう】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
浄土真宗
じょうどしんしゅう
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デジタル大辞泉
じょうど‐しんしゅう〔ジヤウド‐〕【浄土真宗】
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葬儀辞典
浄土真宗
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世界大百科事典 第2版
じょうどしんしゅう【浄土真宗】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
浄土真宗
じょうどしんしゅう
浄土の一宗を創唱した法然(ほうねん)(源空)の門弟親鸞(しんらん)(1173―1262)によって開かれた仏教の一派。真宗とも略称する。古くは俗に一向宗(いっこうしゅう)、門徒宗ともいわれた。浄土宗鎮西派(ちんぜいは)や浄土宗西山派(せいざんは)、時宗(じしゅう)などとともに日本浄土教の主流を形成し、日本の総人口の約20%を占めている。
[石田充之]
歴史
最初叡山(えいざん)に学び、1201年(建仁1)法然の専修念仏(せんじゅねんぶつ)に帰した親鸞は、1207年(承元1)法然が四国方面へ流罪となったとき還俗(げんぞく)させられて越後(えちご)国府に流罪となる。4年ばかりの配所の生活を送るころに恵信尼(えしんに)と結婚、その後、越後・関東・京都にわたる非僧非俗の在家者(ざいけしゃ)的な念仏教化生活を送るが、その態度は、彼の主張内容と相まって、僧俗一体平等の同朋(どうぼう)教団としての歩みを形成する。
親鸞の晩年に異端を主張した長子善鸞(ぜんらん)の義絶事件などが関東方面で起こるが、性信(しょうしん)などの有力門弟の協力により収拾され、その末女(すえのこ)覚信尼(かくしんに)(1224―1283)は、親鸞没(1262)後その廟所(びょうしょ)を夫の小野宮禅念(おのみやぜんねん)や門弟顕智(けんち)らと協力して京都東山大谷(おおたに)につくり、廟所全体を親鸞門弟に寄進して、門弟の共同管理とし、留守役をいちおう親鸞の子孫が勤めていくこととする。その後、留守役は、覚信尼より長子覚恵(かくえ)(亡夫日野広綱の子、1239/1249―1307)が継ぐが、覚恵の異父弟唯善(ゆいぜん)(禅念の子、1266―1317)の大谷廟所押領専有事件などが起こる。しかし関東の門弟などの努力により落着し、廟所は親鸞門弟が共同で管理していく体制が確立された。
覚恵の長子覚如(かくにょ)(1270―1351)は、親鸞門流の同意をかろうじて得て留守役(留守職(るすしき))につき本願寺の寺号を掲げるが、彼は真宗教団の形態的なまた信仰的な体制の確立に異常な努力を払い、大谷廟本願寺親鸞聖人(しょうにん)を受け継ぐ法統・血統の正統者・主権者であるといった傾向を強く示した。そのため、門弟一同に信望の厚い長子存覚(ぞんかく)(1290―1373)をも一生涯義絶状態に置き、関東の真仏(しんぶつ)(1209―1258)・顕智(1226―1310)の高田門徒専修寺派(せんじゅじは)、その系統の三河(みかわ)(愛知県)の和田門徒(わだもんと)、京都東山の了源(りょうげん)(1295―1352)の仏光寺派(ぶっこうじは)、越前(えちぜん)(福井県)の如道(にょどう)(?―1352ころ)らの三門徒派(さんもんとは)系、江州(ごうしゅう)(滋賀県)の木部(木辺)(きべ)慈空(じくう)(?―1351)の錦織寺派(きんしょくじは)などが、いずれも本願寺離反の傾向を示す。
大谷廟本願寺の留守職は、のち善如(ぜんにょ)―綽如(しゃくにょ)―巧如(ぎょうにょ)―存如(ぞんにょ)と継がれるが、その勢力は仏光寺派の繁栄に比しわずかに北陸方面に教線を伸ばすのみで衰退に赴く。しかし本願寺第8代蓮如(れんにょ)(1415―1499)の平易な『御文(おふみ)』(『御文章(ごぶんしょう)』)による同朋精神高揚の念仏伝道は親鸞門流全体を再結集し、本願寺教団の隆盛をみる。蓮如以後、実如―証如(しょうにょ)―顕如(けんにょ)(1543―1592)と継がれるが、北陸門徒による一向一揆(いっこういっき)の勃興(ぼっこう)、大坂石山本願寺(いしやまほんがんじ)の織田信長との戦いなど安泰ではなかった。石山合戦での和睦(わぼく)問題を契機として顕如の三男准如(じゅんにょ)(1577―1650)が豊臣秀吉(とよとみひでよし)の裁可により本願寺を継ぎ、次男顕尊(けんそん)(1564―1594)は蓮如に帰依(きえ)し仏光寺派より分かれた経豪(きょうごう)(1451―1492)がおこした興正寺(こうしょうじ)を継ぎ、信長との和睦にただちに応ぜず部屋住みとなっていた長子教如(きょうにょ)(1558―1614)は家康より寺地の寄進を得て東本願寺を建てた。以後本願寺は2派に分かれ、准如の系統を本願寺派(西本願寺)、教如の系統を大谷派(東本願寺)と称する。
その後、江戸時代のキリスト教などに対応する鎖国政策は、本末制(ほんまつせい)、檀家制度(だんかせいど)などを真宗教団にも確立し寺院の増加をみるが、わずかにその教学、布教などを振興するのみで、宗教的にはきわめて無力化される。明治時代の初め、島地黙雷(しまじもくらい)、赤松連城(あかまつれんじょう)らが西欧の視察留学より帰るや、真宗教団の独自性の確立、信仰の自由を図り、学制の改革などによる教団の近代化を企て現在に至る。(1)本願寺派、(2)大谷派、(3)高田派、(4)仏光寺派、(5)興正派、(6)木辺派(きべは)、(7)三門徒派、(8)誠照寺派(じょうしょうじは)、(9)山元派(やまもとは)、(10)出雲路派(いずもじは)の10派よりなる。
なお、「浄土真宗」の語は親鸞の主著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』にみえるところから、東・西本願寺は1774年(安永3)これを宗名とすることを幕府に願いいでたが、浄土宗増上寺がこれに反対し、いわゆる宗名問題として長く争われた。1872年(明治5)政府より「真宗」と称すべき旨の通達が出されて決着、「真宗大谷派」「真宗本願寺派」と称した。現在、真宗10派のうち本願寺派のみは「浄土真宗」を、他の9派は「真宗」を称している。
[石田充之]
教義
親鸞の『教行信証』などの主張をその根幹とする。したがって、大乗仏教経典なる『無量寿経(むりょうじゅきょう)』『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』『阿弥陀経(あみだきょう)』を正依(しょうえ)の経とし、龍樹(りゅうじゅ)、天親(てんじん)(世親(せしん))、曇鸞(どんらん)、道綽(どうしゃく)、善導(ぜんどう)、源信(げんしん)、法然の七祖の聖典、覚如・存覚の諸著、蓮如の『御文(おふみ)』などが重視される。南無阿弥陀仏と称(とな)える称名念仏の実践において、人間の自我欲中心的な生き方を、無我・縁起因縁生(えんぎいんねんしょう)の真理の現れとしての阿弥陀仏の浄土の悟りの躍動力なる本願力他力(ほんがんりきたりき)(第十八願力)の光・呼声(よびごえ)のなかに、心底深く内省せしめられ、つねに清浄土(しょうじょうど)の実現を願いつつ無我・平等・大慈悲心のあふれる現実生活を開拓することを力説する教えである。
[石田充之]
『龍谷大学編・刊『真宗要義』全3巻(1927~1939)』▽『龍谷大学編・刊『真宗要論』全1巻(1953)』▽『本願寺史料研究所編・刊『本願寺史』3巻(1961~1969)』▽『普賢大円著『真宗教義の発達』(1963・永田文昌堂)』▽『宮崎円導還暦記念会編『真宗史の研究』(1966・永田文昌堂)』▽『細川行信著『真宗成立史の研究』(1977・法蔵館)』▽『千葉乗隆著『真宗教団の組織と制度』(1978・同朋舎出版)』
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精選版 日本国語大辞典
じょうど‐しんしゅう ジャウド‥【浄土真宗】
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旺文社日本史事典 三訂版
浄土真宗
じょうどしんしゅう
真宗・一向宗ともいう。親鸞の唱えた絶対他力の信仰と悪人正機説に基づいており,浄土宗の一派ではあるが,法然の教えをさらに深化させたものといえる。親鸞の没後,宗門はいわゆる真宗十派に分かれたが,いずれもおもに農民層を布教の対象とした。飛躍的に宗勢が強まったのは特に本願寺派で,室町中期,蓮如 (れんによ) は,石山本願寺を中心に北陸・東海・近畿の地域で発展し,また本願寺の教団組織(講)も強化された。中世末期には門徒組織の拡大,農民層の成長を背景に,強力な一向一揆がおこった。本山である京都の本願寺は,江戸初期に東本願寺・西本願寺に分かれ,今日に至っている。
出典:旺文社日本史事典 三訂版
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