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浅井氏【あさいうじ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

浅井氏
あさいうじ
戦国大名。藤原姓。正親町三条実雅の子公綱が嘉吉年間 (1441~44) ,近江国に流され浅井小谷荘に居住し,公綱は帰洛したが,その子重政が土着して守護京極氏に仕え,浅井氏を名のったという。一説に,藤原俊忠の子忠次が武士となり,浅井郡5ヵ所を知行し,浅井を氏としたともいう。重政の孫亮政は,応仁の乱後主家の内紛に乗じてそむき,上坂,今浜諸城を奪い,江北の地を占め,越前朝倉氏および美濃斎藤氏と結んで近江の大半を領した。久政を経て,長政は織田信長の妹お市 (→小谷の方 ) をめとって勢力を増した。元亀1 (1570) 年,長政は朝倉氏や一向宗門徒と結んで信長徳川家康の連合軍と姉川で戦ったが敗れ,天正1 (73) 年,信長に小谷城を攻められて自殺,滅亡した。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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世界大百科事典 第2版

あさいうじ【浅井氏】
北近江の戦国大名。出自については,三条公綱落胤説,物部守屋後裔説などがあるが,俗説と思われる。《江北記》によれば,江北の守護京極氏の根本被官の1家に数えられているが,南北朝・室町期においては目だった活動を示す史料がなく,おそらく浅井郡丁野郷(滋賀県東浅井郡湖北町)付近を本拠とした国人であったと思われる。応仁の乱ごろより活動が現れるが,勃興したのは亮政(すけまさ)のときで,京極氏の家督争いに乗じ,1525年(大永5)京極高清を本居小谷(おだに)城に迎え,主導権を握った。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

浅井氏
あさいうじ

近江国(おうみのくに)(滋賀県)北半部の戦国大名。「あざい」と読むのが正しい。もとは近江半国の守護京極(きょうごく)氏の被官で、京極氏権力の衰退とともに急速に台頭し、亮政(すけまさ)のときの1523年(大永3)同じ京極氏被官である浅見氏、三田村氏、今井氏らと国人一揆(こくじんいっき)を結んで守護京極高清(たかきよ)を追放した。国人一揆から戦国大名化した典型例として有名である。亮政の子久政(ひさまさ)は領内の民政に手腕を発揮し、ついで1560年(永禄3)に後を継いだ長政が織田信長と同盟し、浅井氏の全盛時代をつくりあげた。ところが1570年(元亀1)越前(えちぜん)(福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)と結んで信長に背き、姉川の戦いに敗れてからは居城小谷(おだに)城にこもり、ついに1573年(天正1)信長に攻められ、3代で滅亡した。

[小和田哲男]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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旺文社日本史事典 三訂版

浅井氏
あさいし
室町時代,近江国(滋賀県)の戦国大名
もと京極氏の被官。応仁の乱(1467〜77)後,亮政は京極家の内紛を機に,近江北部を占領。朝倉・斎藤・織田氏と結ぶ。1573年長政のとき織田信長に攻められ滅亡した。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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