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清河八郎【きよかわ はちろう】

美術人名辞典

清河八郎
幕末の志士。山形生。変名を大谷雄蔵・日下部達三。安積艮斎千葉周作らに文武を学ぶ。文久3年(1863)歿、32才。

出典:(株)思文閣

朝日新聞掲載「キーワード」

清河八郎
出羽国清川村(現庄内町清川)の酒屋の長男、斎藤元司として生まれる。18歳の時に家出して江戸で学問を学び、最高学府の昌平黌に入学。清河八郎と改名し、私塾を開く傍ら、北辰一刀流も修めた。桜田門外の変をきっかけに尊皇攘夷(じょうい)運動に傾倒同志と「虎尾の会」を結成し、全国の尊攘派志士と交わった。1862年、上洛(らく)する将軍警護を名目に浪士組編成を幕府に認めさせ、上洛後に浪士組を尊皇攘夷の急先鋒(きゅうせんぽう)へと転回させた。これに反発して浪士組を離脱した者たちが後に新選組を結成した。幕府に危険視され、63年4月、江戸・麻布暗殺された。
(2013-09-01 朝日新聞 朝刊 山形 1地方)

出典:朝日新聞掲載「キーワード」

デジタル大辞泉プラス

清河八郎
柴田錬三郎の時代小説。1963年刊行。

出典:小学館
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

清河八郎
きよかわはちろう
[生]天保1(1830).出羽,庄内
[没]文久3(1863).4.13. 江戸
幕末,佐幕派のなかの尊王の志士。出羽国東田川郡清川村の郷士斎藤治兵衛の子。当初は清川とも書いたが,正明,大谷雄蔵,日下部 (くさかべ) 達三などの変名も用いた。安積艮斎 (あさかごんさい) に師事して儒学を修め,千葉周作について剣を学び文武の道に秀でた。のち上洛して尊王の志士と交遊し,みずからも過激な攘夷論者となり,京都で田中河内介らと攘夷運動にたずさわったが,文久2 (1862) 年,薩摩藩が攘夷派を制圧したので江戸に帰った。同3年幕府の浪士組 (のちの新撰組 ) 結成に参加したが,近藤勇らと意見が合わず,麻布一ツ橋で暗殺された。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

清河八郎
きよかわはちろう
(1830―1863)
幕末の志士。姓は生地清川にちなむもので「清川」とも書く。庄内(しょうない)藩郷士斎藤治兵衛豪寿(じへえひでとし)の長男。幼名元司、のち正明。1847年(弘化4)18歳で江戸に出て東条一堂の塾に入門し文を学び、剣を北辰(ほくしん)一刀流の千葉周作(しゅうさく)に学んだ。関西、四国、九州へ旅行し熱烈な攘夷(じょうい)論者となり、真木和泉(まきいずみ)、平野国臣(くにおみ)らと親交を結んだ。63年(文久3)2月幕府の浪士組(後の新選組)編成に応じて上洛(じょうらく)し、その中心人物であったが、幕府に反して尊攘を主張して近藤勇(いさみ)・土方歳三(ひじかたとしぞう)らと対立、東帰を命ぜられた。江戸に帰ってから、横浜外国人居留地の焼打ち準備を進めていたが、同年4月13日に、江戸麻布(あざぶ)一の橋で幕府見廻(みまわり)組佐々木只三郎(たださぶろう)らに暗殺された。享年34。郷里の山形県庄内(しょうない)町清川に清河八郎記念館がある。著書に『西遊草(さいゆうそう)』がある。[小島政孝]
『小山松勝一郎著『清河八郎』(1974・新人物往来社)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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