●湯浅党【ゆあさとう】
世界大百科事典 第2版
ゆあさとう【湯浅党】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
湯浅党
ゆあさとう
平安中期以降、湯浅一族を中核として成長してきた武士団。御家人(ごけにん)役を勤めるために在京する順番を、正月から翌年2月まで、17番に分けて定めた1289年(正応2)の「湯浅入道宗重跡本在京結番注文(ゆあさにゅうどうむねしげあとほんざいきょうけちばんちゅうもん)」によれば、一族の所領として湯浅、田殿(たどの)、田仲(たなか)、糸我(いとが)、石垣、宮原、芳養(はや)、浜仲、保田(やすだ)、阿氐河(あてがわ)、木本(きのもと)、藤並(ふじなみ)、六十谷(むそだに)などの諸荘(しょう)がみえ、その勢力範囲は紀伊国在田(ありだ)郡(和歌山県有田(ありだ)郡)一帯に広がる大規模なものであった。また党は、湯浅一族の湯浅、保田、石垣、阿氐川、糸我、得田(とくだ)、崎山(さきやま)の各氏に加え、「他門」と称される田中、宮原、六十谷、木本、藤並などの諸氏によって構成されていた。なかでも宗重の嫡男宗景(むねかげ)の系統(湯浅氏)と、阿氐河、保田、田殿、石垣などの荘園の地頭(じとう)となった宗光(むねみつ)の系統(保田氏)とが有力で、党結合の中軸をなしていた。しかし鎌倉時代後半期には各家々が独立性を強め、党結合は解体の方向へと向かう。
[酒井紀美]
『安田元久著『武士団』(1964・塙書房)』
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