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源空【ゲンクウ】

デジタル大辞泉

げんくう【源空】
法然(ほうねん)の諱(いみな)。

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
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世界大百科事典 第2版

げんくう【源空】

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

げんくう【源空】
法然ほうねんの僧としての正式の名前。

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)

源空
げんくう
(1133―1212)
鎌倉初期の浄土宗の開祖。法然(ほうねんぼう)と号し、法然上人(しょうにん)、黒谷(くろだに)上人と称される。勅諡(ちょくし)は多いが、円光大師(えんこうだいし)がよく知られる。[末木文美士]

生涯

1133年(長承(ちょうしょう)2)4月7日、美作(みまさか)国久米(くめ)南条稲岡荘(しょう)(岡山県久米郡久米南町)に押領使(おうりょうし)の漆間時国(うるまときくに)(1098ころ―1141)の子として生まれる。9歳のとき、父が荘預所(あずかりどころ)明石定明(あかしさだあき)との争いの際に傷ついて死に、同国菩提寺(ぼだいじ)の観覚(かんがく)の弟子となった。13歳で叡山(えいざん)に登ったが、1150年(久安6)18歳で西塔黒谷(さいとうくろだに)に遁世(とんせい)し、叡空(えいくう)に師事した。法然房源空の名はこのころから用いるようになったものである。以後、黒谷において勉学と修行に励んだが、1175年(安元1)43歳のおり、専修念仏(せんじゅねんぶつ)の立場を確立し、叡山を下った。この年が浄土宗開宗の年とされる。1186年(文治2)、天台の顕真(けんしん)(1131―1192)をはじめとする諸宗の碩学(せきがく)と大原勝林院において念仏を論じた(いわゆる大原問答または大原談議という)。このころからようやく社会的に名も知られ、活動も活発化する。すなわち、関白九条兼実(くじょうかねざね)への授戒(1189年以降)、東大寺における浄土三部経講説(1190)などの事績が知られ、1198年(建久9)には兼実の請いにより主著『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』(略称『選択集』)を著した。また、証空(しょうくう)、隆寛(りゅうかん)、弁長(べんちょう)、幸西(こうさい)(1163―1247)、親鸞(しんらん)などの弟子が集まり、一大教団をなすに至った。しかし同時に、門下による積極的な活動は在来諸宗の反発を招き、延暦寺(えんりゃくじ)の衆徒による訴えがおこされたため、1204年(元久1)には『七箇条制誡(しちかじょうせいかい)』をつくって門弟を戒めたが、翌1205年にはさらに興福寺により訴状が朝廷に出された。1206年(建永1)にはたまたま門人の不祥事件に端を発してついに念仏停止(ちょうじ)の宣旨(せんじ)が下され、門下の行空(ぎょうくう)(生没年不詳)、遵西(じゅんさい)(?―1207)が捕らわれ、翌1207年(承元1)には遵西、住蓮(?―1207)らが処刑されるとともに、3月に源空自身も藤井元彦の罪人名で四国に流罪(るざい)となった。同年末、勅免の宣旨が下ったが帰京は許されず、摂津国(大阪府)勝尾寺(かつおじ)に4年間とどまり、1211年(建暦1)ようやく入洛(じゅらく)、東山大谷に住した。翌1212年正月には衰弱が著しく、門弟の源智(げんち)に念仏の肝要を一紙に記した『一枚起請文(きしょうもん)』を授けたのち、正月15日、80歳の生涯を閉じた。[末木文美士]

著述・伝記

源空は著述家である以前に実践家であり、主著『選択集』のほかにはほとんどまとまった著述を残さなかった。しかし、講録、消息、法語、問答などは少なからずあり、のちに『西方指南抄(さいほうしなんしょう)』3巻(親鸞自筆書写本が現存)、『法然上人語燈録(ごとうろく)』18巻(了慧(りょうえ)(1243―1330)編、漢語10巻、和語5巻、拾遺(しゅうい)3巻)などに整理、収録された。しかし、すでに源空生前から、源空の名を冠した偽書が行われていたといわれ、現存する諸書間に矛盾も多く、それらの批判、考証はなお今後の課題である。
 なお、源空の伝記はいくつかあるが、成立の早いものに『醍醐本(だいごぼん)法然上人伝記』『源空聖人私日記』『知恩講私記』などがあり、14世紀初めに舜昌(しゅんしょう)(1255―1335)により『法然上人行状絵図(ぎょうじょうえず)』48巻に集大成された。[末木文美士]

思想

もともと叡山に学んだ源空は、最初は源信の『往生要集(おうじょうようしゅう)』を手掛りに浄土教に入ったとみられるが、決定的な転機をもたらしたのは善導(ぜんどう)の『観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)』で、本書によって称名(しょうみょう)念仏一行専修(せんじゅ)の立場を確立したとされている。その後、1190年(建久1)の東大寺三部経講説のころにはその理論的基礎づけとして選択の理論が打ち立てられ、『選択集』において体系的に整理された。この説は、称名念仏を単なる一つの行として主張するにとどまらず、弥陀(みだ)が選択し、釈迦(しゃか)と諸仏が承認した唯一絶対の行であると主張するものである。それは従来の仏教の価値観を逆転するものであり、当時の諸宗に飽き足らない民衆によって熱狂的に歓迎されるとともに、諸宗の厳しい糾弾を受けるもとともなった。なお、源空の門下にあっては、念仏の絶対性を強調する派と、諸宗との融合を図る派に分かれ、前者では証空(西山義(せいざんぎ))、隆寛(多念義(たねんぎ))、幸西(一念義(いちねんぎ))、親鸞(浄土真宗)があり、後者では弁長(鎮西義(ちんぜいぎ))、長西(ちょうさい)(1184―1266。諸行往生義(しょぎょうおうじょうぎ))などが名高い。[末木文美士]
『井川定慶編『法然上人伝全集』(1952・同書刊行会) ▽石井教道・大橋俊雄編『昭和新修法然上人全集』(1955・平楽寺書店) ▽大橋俊雄校注『日本思想大系10 法然・一遍』(1971・岩波書店) ▽田村円澄著『法然上人伝の研究』新訂版(1972・法蔵館)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

源空 げんくう

出典:講談社
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

源空
げんくう
法然」のページをご覧ください

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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精選版 日本国語大辞典

げんくう【源空】

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旺文社日本史事典 三訂版

源空
げんくう
法然

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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