●源義朝【みなもとのよしとも】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
源義朝
みなもとのよしとも
[没]永暦1(1160).1.4. 尾張
平安時代末期の武将。為義の長子。相模に住んで東国に勢力をもった。仁平3 (1153) 年下野守。保元1 (56) 年の保元の乱には平清盛とともに後白河天皇の陣営に加わって白河殿を陥れ,崇徳上皇方についた父をはじめ源氏の一族を斬った。功によって昇殿を許され,左馬権頭に任じられたが,権臣藤原通憲 (信西) と結んだ清盛の勢威に及ばないのを不満として,通憲と不和の藤原信頼と結んで平治1 (59) 年平治の乱を起した。しかし敗れて東国に逃れる途中立寄った尾張野間の長田忠致のもとで,浴室で謀殺された。 (→保元・平治の乱 )
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朝日新聞掲載「キーワード」
源義朝
(2012-02-02 朝日新聞 朝刊 名古屋 1地方)
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デジタル大辞泉
みなもと‐の‐よしとも【源義朝】
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus
源義朝 みなもとの-よしとも
保安(ほうあん)4年生まれ。源為義の長男。保元(ほうげん)の乱で後白河天皇方について勝利したが,信西(しんぜい)(藤原通憲(みちのり))の命で崇徳(すとく)上皇方の父と弟たちを処刑した。平治(へいじ)の乱では藤原信頼とともに信西,平清盛の排除をねらって敗退。東国にむかう途中,平治2年1月3日尾張(おわり)(愛知県)で長田忠致(おさだ-ただむね)に謀殺された。38歳。
【格言など】敵のよするを相待て日をのぶるならば,人馬どもつかれて合戦弱(よわか)るべし(「保元物語」保元の乱で白河殿を奇襲するときのことば)
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世界大百科事典 第2版
みなもとのよしとも【源義朝】
平安末期の武将。源為義の長男。母は淡路守藤原忠清の娘。父祖相伝の本拠相模国鎌倉で成長したらしい。天養年間(1144‐45)目代(もくだい)と結んで同国大庭御厨(おおばのみくりや)の押妨を企て,さらに同じころ下総相馬(そうま)御厨をも掠領した。義朝には上総御曹司の異名があるところから,房総地域にも勢力を扶植していたと推測される。上京して下野守となり,1156年(保元1)保元の乱で平清盛と同様後白河天皇方として戦い,乱後父為義,兄弟以下崇徳上皇方の源氏一族を斬った。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
源義朝
みなもとのよしとも
(1123―60?)
平安末期の武将。清和(せいわ)源氏の嫡流為義(ためよし)の嫡男。母は淡路守(あわじのかみ)藤原忠清(ただきよ)の女(むすめ)。相模(さがみ)国(神奈川県)鎌倉で成長したらしく、天養(てんよう)(1144~45)ころ相模大庭御厨(おおばのみくりや)ついで下総(しもうさ)相馬(そうま)御厨の押妨(おうぼう)を企てている。同地域に本領を確立しようとしたものらしい。鎌倉は父祖伝来の地であり、また義朝には「上総御曹司(かずさおんぞうし)」の異名もあるので、相模や房総の地域はもともと清和源氏と深い因縁のある地であったと思われる。やがて下野守(しもつけのかみ)となり、保元(ほうげん)の乱(1156)では、父為義や他の弟がみな崇徳(すとく)上皇方にくみしたのに対し、ひとり後白河(ごしらかわ)天皇方として戦い、上皇方を破った。乱後、父・弟を処刑、恩賞として左馬頭(さまのかみ)となるが、少納言(しょうなごん)入道信西(しんぜい)(藤原通憲(みちのり))と組んだ平清盛(きよもり)の権勢に圧倒され、しだいに藤原信頼(のぶより)に接近、1159年(平治1)ついに挙兵して平治(へいじ)の乱を起こす。しかし清盛の急襲を受けて敗退し、東国に逃れる途中、尾張(おわり)国知多(ちた)郡野間(愛知県知多郡美浜町野間)で家人長田忠致(おさだただむね)のために殺害された。同年12月29日とも翌永暦(えいりゃく)元年1月4日ともいわれる。野間の大坊(だいぼう)(大御堂(おおみどう)寺)の義朝の墓には、義朝の最期の無念を推量して木太刀(こだち)を捧(ささ)げる風習が残っている。
[飯田悠紀子]
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精選版 日本国語大辞典
みなもと‐の‐よしとも【源義朝】
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旺文社日本史事典 三訂版
源義朝
みなもとのよしとも
平安末期の武将
為義の長男。頼朝の父。1156年保元の乱に後白河天皇方につき,功により左馬頭 (さまのかみ) となった。乱後平清盛と対立し,'59年平治の乱をおこしたが敗れ,東国への敗走中,尾張で家人の長田忠致 (おさだただむね) に殺された。
出典:旺文社日本史事典 三訂版
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