●玄宗【ゲンソウ】
デジタル大辞泉
げん‐そう【玄宗】
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus
玄宗 げんしゅう
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世界大百科事典 第2版
げんそう【玄宗 Xuán zōng】
中国,唐朝の第6代皇帝。姓名李隆基。在位712‐756年。睿宗の第3子として洛陽に生まれ,三郎の愛称で親しまれた。楚王さらには臨淄王に封ぜられたが,ときに祖母則天武后の治世であり,生母の竇(とう)氏(後に昭成順聖皇后を追贈)も武后の手で消される非運にあった。このいわゆる武周政権時代を終わり第4代中宗が復位したものの,中宗は710年(唐隆1)武后の故事にならおうとした皇后韋氏と娘の安楽公主によって毒殺される。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
玄宗
げんそう
(685―762)
中国、唐朝第6代皇帝(在位712~756)。本名は李(り)隆基。明皇(めいこう)とも称せられる。第2代太宗の死後、皇后、外戚(がいせき)、皇親、寵臣(ちょうしん)など皇帝側近の権勢と政争のため、政情不安定の時代が続いた。則天武后の周朝から唐朝が復活したのちも、中宗の皇后韋(い)氏一派が政権を握り、ついに帝を毒殺した。帝の甥(おい)にあたる臨淄(りんし)王隆基は音楽や書の妙手で、風采(ふうさい)の優れた貴公子であったが、710年クーデターを敢行して韋氏一派を倒し、父の旦(たん)を即位させた(睿宗(えいそう))。同時に彼も皇太子となり、やがて父帝の譲りを受けて帝位についた。翌年おばの太平公主の勢力を武力で一掃して、ここに皇帝を唯一最高の権力と仰ぐ統一政治を回復した。713年に始まる開元(かいげん)時代(~742)は、太宗の貞観の治(じょうがんのち)を手本とし、後世開元の治と称せられる。玄宗は、貞観時代の房玄齢(ぼうげんれい)・杜如晦(とじょかい)に比せられる名宰相姚崇(ようすう)・宋璟(そうえい)を信任して政治に励み、奢侈(しゃし)を禁じ、儒学を重んじ、密奏制度をやめ、冗官(じょうかん)や偽濫僧(ぎらんそう)(国家非公認の僧)を整理するなど、前代の悪弊を除き、公正な政治の再建に努めた。玄宗が自ら『孝経』に注を施したことは有名である。対外的にも、突厥(とっけつ)を圧服し、契丹(きったん)・奚(けい)両民族を帰順させるなど北辺の平和維持に成功、経済・文化の発展と相まって輝かしい平和と繁栄の時代が現出した。
しかしその頂点は、時代の転換への道でもあった。開元後半期から次の天宝期(742~756)にかけて、律令政治は法的に整備される一方、官制・財政・兵制などあらゆる面で空洞化した。玄宗自身の政治姿勢も崩れ、李林甫(りりんぽ)などの寵臣を宰相としてこれに政治をゆだね、高力士らの宦官(かんがん)を重用した。精神面でも、儒教的理念から離れて道教の放逸な世界に傾倒し、公私の莫大(ばくだい)な費用の捻出(ねんしゅつ)のために民衆の収奪を事とする財務官僚を信任した。皇后王氏から武恵妃に心を移し、武氏の死後は息子の寿王から妃楊太真(ようたいしん)を奪って貴妃とした。白楽天の「長恨歌(ちょうごんか)」が歌うように、楊貴妃との愛欲の世界の陰には帝国の危機が進行していた。玄宗は貴妃の一族と称する楊国忠と、東北辺に胡漢(こかん)の傭兵(ようへい)の大軍団を擁する安禄山(あんろくざん)とを、いずれも信任した。内外二つの権勢はついに激突して安史の大乱となり、756年玄宗は長安を脱出、四川(しせん)に落ち延びた。その途中で楊貴妃を失い、皇太子(粛宗)に譲位して上皇となった。翌年、長安が奪回されて帰還したが、粛宗の腹心李輔国(ほこく)のため高力士ら側近を引き離され、太極宮に閉じ込められ失意のうちに没した。
[谷川道雄]
『礪波護著「唐中期の政治と社会」(『岩波講座 世界歴史5 古代5』所収・1970・岩波書店)』
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精選版 日本国語大辞典
げん‐しゅう【玄宗】
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げん‐そう【玄宗】
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旺文社世界史事典 三訂版
玄宗
げんそう
唐第6代皇帝(在位712〜756)
名は隆基。中宗の皇后韋后 (いこう) 一派の専権を倒して父睿宗 (えいそう) を復位させ,のち28歳で譲位された。姚祟 (ようすう) ・宋璟 (そうえい) らの賢臣を用い,十節度使を設置,募兵制を採用した。農民生活の安定につとめたので産業も発展し,国都長安は繁栄した。その治世の前半を開元の治という。晩年は楊貴妃の女色に溺れ,李林甫・楊国忠・安禄山らを信任して政治を怠り,宮廷は乱れた。また,玄宗時代の繁栄は宮廷・貴族を中心としたので,窮乏農民が増し,節度使の勢力が強まった。その結果,755年安史の乱に遭い,翌年蜀に逃走の途中,子の粛宗 (しゆくそう) に譲位。757年長安に帰ったが,粛宗との関係が円満を欠き,道教に帰依しつつ不遇の晩年を送った。白楽天の「長恨歌」に歌われるなど,多くの文学作品にもとりあげられている。
出典:旺文社世界史事典 三訂版
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