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王莽【おうもう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

王莽
おうもう
Wang Mang
[生]初元4(前45)
[没]地皇4(後23)
中国,前漢末の政治家,新 (8~24) の建国者。山東の人。字は巨君。漢,元帝の皇后王氏の庶母弟の子。幼少時は一族のなかでは不遇であったが,儒学を修め,長上によく仕え,伯父王鳳に認められて栄達し,綏和1 (前8) 年,大司馬にまでなった。元寿2 (前1) 年,9歳の平帝を擁立,五行讖緯 (しんい) 説を利用して自分に対する世論の支持を盛上げた。妹を平帝の皇后に立てたが,やがて平帝を殺し,2歳の劉嬰 (りゅうえい) を太子に立てて摂政となり,居摂2 (7) 年劉嬰を退けてみずから真皇帝と称し,国を新と号した。五経の一つ『周礼』を信奉して復古主義を唱え,の制度はこの書にをとった。土地はすべて王田とし,土地や奴婢の売買を禁じ,五均・六かんの制によって商人を押え,専売を行い,物価を統制した。このため経済が混乱し,また周辺民族にも中華思想を振りかざして対処したので,国の内外からの反乱を招き,赤眉の乱や劉氏朝復活の動きのなかで殺された。

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デジタル大辞泉

おう‐もう〔ワウマウ〕【王莽】
[前45~後23]中国、前漢末の政治家。朝の創建者。在位9~23。(あざな)は巨君。成帝の母王太后の甥。平帝を立てて政権を握り、のち平帝を毒殺して帝位に就き、国号を新とした。在位15年。儒教的政策を強引におし進めたが失劉秀(りゅうしゅう)後漢光武帝)に攻められ敗死した。

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世界大百科事典 第2版

おうもう【王莽 Wáng Mǎng】
前45‐後23
中国,王朝の創始者。前漢元帝の王皇后の庶母弟王曼の子。字は巨君。王皇后の子の成帝が即位すると,弟は外戚としてをふるったが,王莽は父が早く死んだために孤貧のなかで育った。しかし儒学を学び,家では母や寡婦となった兄嫁によく仕え,兄の遺児養い,外では俊才と交わり,父の兄弟たちにも誠意をつくすなどしてしだいに人物を認められた。大将軍王鳳の推挙によって黄門郎として仕官したあとは順調に昇進し,前16年には新都侯に封ぜられ,前8年には38歳で大司馬となった。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

王莽
おうもう
(前45―後23)

中国、新(しん)朝の創建者(在位9~23)。字(あざな)は巨君。中国史上、禅譲革命の方式を最初に現実化し、前漢から政権を奪い新を樹立し、『周礼(しゅらい)』にみえる古文派の儒教に基づく理想社会を具現しようとしたことで知られる。前漢第11代皇帝元帝の王皇后(元后)の弟の曼(まん)の次子。元后の生んだ子が成帝(在位前33~前7)として即位すると、王氏一族は外戚(がいせき)として台頭し、元后の弟7人がすべて列侯に封ぜられ、大司馬の職を順次占め、国家の軍事権を握った。王莽は父が早死にしたため、王氏一族のなかで1人不遇であったが、やがて王氏内部の権力抗争に勝ち、成帝の末年、自らも大司馬となった。紀元前7年、哀帝が即位すると一時下野したが、継子なく哀帝が急死するや、元后と王莽はクーデターまがいの手段で一挙に実権を握り、元帝の孫で9歳の平帝を擁立し、王莽が国政を総覧することになった。この平帝を紀元後5年に毒殺し、自ら摂皇帝となり、以後王莽の王朝纂奪(さんだつ)の意図は本格化した。当時、支配的な時代思潮であった、天意は瑞祥(ずいしょう)、災異、符命(ふめい)(神秘的な形態を伴って人間に示される天命)によって人間界に示されるとする讖緯(しんい)説を作為的に利用し、ついに後9年自ら天子の位についた。

 即位後王莽は、官制の改革、官名・地名の改変、土地制度の改変、貨幣制度の改革、商工業の統制など復古的な色彩を伴う諸政策を実施した。これらは、強大化してきた在地の豪族層の大土地所有を制限し、一般の自営農民の土地亡失に伴う貧民化、流民化を防止するなど、前漢末に顕在化してきた大きな社会問題に対応しようとしたものであった。しかし、かえって社会の混乱を増大させ、失敗に帰するものが多かった。さらに対匈奴(きょうど)政策の失敗もあり、山東に発した農民反乱(赤眉(せきび)の乱など)と、これに続く南陽の劉(りゅう)氏を代表とする豪族反乱によって、23年、長安城内の未央宮(びおうきゅう)で、更始(こうし)帝軍によって刺殺された。王莽の治世15年間は、時代錯誤の復古的社会主義政策などによって、後世の評価はよくないが、天子七廟(びょう)制などの国家の祭祀(さいし)儀礼をはじめ、儒教理念を基本とする中国の王朝国家の理想的国家像、理想的君主像を明示したのは、中国史上注目されるべきものである。

[春日井明]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

おう‐もう ワウマウ【王莽】
中国、前漢末期の政治家。新の建設者。字(あざな)は巨君。哀帝没後、平帝をたて実権を掌握。のち、平帝を毒殺し、幼帝嬰を擁立。その摂政となり、やがて自ら帝位を得る。周代初期の古制の復元をめざしたが失敗。漢の劉秀(後漢の光武帝)に攻められ殺された。在位一五年。(前四五‐後二三

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