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畠山氏【はたけやまうじ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

畠山氏
はたけやまうじ
(1) 桓武平氏村岡良文の後裔。平安時代以来,武蔵国秩父地方に土着し,秩父氏といったが,秩父重綱の子重能が同国男衾 (おぶすま) 郡畠山荘の荘司となって畠山氏を称した。重忠のとき源頼朝に従って活躍し,有力御家人となった。重保のとき平賀氏と争い,元久2 (1205) 年北条氏によって滅ぼされた。庶流に葛西,河越,高山,江戸,小山田氏などがある。 (2) 清和源氏の流れをくみ,足利義康の孫義純を祖とする。義純の子泰国のとき畠山氏を称して足利氏に従属し,国清のとき足利尊氏に従って功を立て,足利氏一門として威をふるい,伊豆,紀伊守護や関東管領足利基氏の執事となったが,のち基氏に滅ぼされた。しかし国清の弟義深は越前,能登の守護となり,子基国は河内,越中,能登などの守護,応永5 (1398) 年管領となり,満家,持国と相次いで,細川,斯波両氏と並んで管領畠山氏の地位を確立した (→三管四職 ) 。しかし応仁の乱によって畠山氏の守護領国制が動揺し,文明 17 (1485) 年山城国一揆によって山城からの撤退を要求され,没落の一途をたどった。最後の拠点河内国も台頭してきた三好長慶に脅かされ,ついに織田信長によって滅ぼされた。

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世界大百科事典 第2版

はたけやまうじ【畠山氏】
(1)平安末・鎌倉初期の関東豪族(図)。桓武平氏。秩父重弘の子重能(しげよし)が武蔵国畠山荘(埼玉県大里郡江南町付近)の荘官となって畠山氏をおこし,一時源義朝に属した。重能の子畠山重忠は,源頼朝の挙兵にあたり,平氏に味方したが,まもなく頼朝に帰順し,有力御家人となり,同国菅谷(比企郡嵐山町菅谷)に居館を構えた。しかし1205年(元久2)子重保が平賀朝雅と争ったことから,一族とともに北条時政に誘殺され,家が絶えた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

畠山氏
はたけやまうじ
(1)平安末~鎌倉初期の豪族。桓武平氏(かんむへいし)。秩父(ちちぶ)氏の一族。秩父重弘(しげひろ)の子重能(しげよし)は武蔵国(むさしのくに)畠山庄(はたけやまのしょう)(埼玉県深谷(ふかや)市川本地区付近)の庄司(しょうじ)となって畠山氏を称し、源義朝(みなもとのよしとも)に、ついで平氏に従った。重能の子重忠(しげただ)は源頼朝(よりとも)に帰服して有力御家人(ごけにん)となり、同国菅谷(すがや)(埼玉県比企(ひき)郡嵐山(らんざん)町)に館(やかた)を構えたが、1205年(元久2)一族とともに北条時政(ほうじょうときまさ)に滅ぼされた。
(2)足利(あしかが)一門の守護大名。嫡流は室町幕府の管領(かんれい)家。清和源氏(せいわげんじ)。足利義兼(よしかね)の子義純(よしずみ)より興る。畠山重忠の妻は北条時政の女(むすめ)で、重忠の死後義純と再婚し、その子泰国(やすくに)は畠山氏の家名を継いだ。一族は数流に分かれ、高国(たかくに)・国氏(くにうじ)父子、国清(くにきよ)・義深(よしふか)兄弟、直顕(なおあき)・直宗(なおむね)らは足利尊氏(たかうじ)・直義(ただよし)に属して活躍した。国氏は吉良貞家(きらさだいえ)とともに奥州管領となったが、観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)(1349~52)にあたり貞家に滅ぼされた。国氏の子国詮(くにあきら)以来安達(あだち)郡二本松(福島県二本松市)に拠(よ)り大名となったが、戦国末期伊達政宗(だてまさむね)に追われて滅亡。直顕は日向(ひゅうが)守護となったが振るわず、直宗は直義の重臣となったが高師直(こうのもろなお)に殺された。一方、国清は直義方から尊氏方に帰参し鎌倉公方(くぼう)足利基氏(もとうじ)の執事(しつじ)となったが没落した。弟義深は許されて越前(えちぜん)守護となり、その子基国(もとくに)は足利義満(よしみつ)に信任され越中(えっちゅう)、能登(のと)、河内(かわち)、紀伊の守護を兼ね、1398年(応永5)管領に登用された。基国の子満家(みついえ)以来、越中・河内・紀伊守護を世襲し管領家として幕府に重きをなしたが、持国(もちくに)の実子義就(よしなり)と甥(おい)で養子の政長(まさなが)は家督を争い、応仁(おうにん)の乱(1467~77)の一因となった。その後も一族・家臣が分争して勢力衰え、高政(たかまさ)に至り織田信長に属したが、その弟で養子の昭高(あきたか)は1574年(天正2)家臣遊佐信教(ゆさのぶのり)に殺された。満家の弟満慶(みつよし)の子孫は能登守護を世襲したが、戦国末、一族・家臣が分争して上杉謙信(うえすぎけんしん)に征服された。嫡流の子孫は江戸幕府の高家(こうけ)となり、能登畠山氏の子孫にも幕臣があった。[小川 信]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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旺文社日本史事典 三訂版

畠山氏
はたけやまし
中世,武蔵国秩父の豪族
②南北朝・室町時代の有力な守護大名
秩父氏ともいい,重能 (しげよし) のとき畠山庄の荘司となり畠山氏と称す。その子重忠は初め平氏に従い,のち源頼朝の有力御家人となったが,1205年北条時政・義時のために滅ぼされた。
畠山重忠の妻が重忠死後足利氏に嫁し,その子孫が再興した。室町幕府3代将軍義満のとき,河内・越中・能登・紀伊の守護となり,三管領の一つとなる。のち義就 (よしなり) と政長とで家督争いがおき,応仁の乱の一因をつくった。乱後衰え,織田信長のときに滅亡した。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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