●盛岡藩【もりおかはん】
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盛岡藩
もりおかはん
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盛岡藩
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藩名・旧国名がわかる事典
もりおかはん【盛岡藩】
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世界大百科事典 第2版
もりおかはん【盛岡藩】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
盛岡藩
もりおかはん
江戸時代、陸奥(むつ)国北・三戸(さんのへ)(青森県)、二戸(にのへ)・九戸(くのへ)・閉伊(へい)・岩手・紫波(しわ)・稗貫(ひえぬき)・和賀(わが)(岩手県)、鹿角(かづの)(秋田県)を領有した外様(とざま)藩。南部(なんぶ)藩ともいう。1590年(天正18)、南部信直(のぶなお)が豊臣(とよとみ)秀吉から南部内7郡を安堵(あんど)されて立藩した。1598年(慶長3)に築城が開始された盛岡城は、1633年(寛永10)にすべてが完成すると、以後、維新まで南部氏の居城に定着した。藩祖信直のあと、利直(としなお)、重直(しげなお)、重信(しげのぶ)、行信(ゆきのぶ)、信恩(のぶおき)、利幹(としもと)、利視(としみ)、利雄(としかつ)、利正(としまさ)、利敬(としたか)、利用(としもち)(早逝につき従弟が身替りにたったため2人いる)、利済(としただ)、利義(としよし)(信侯(のぶとも))、利剛(としひさ)、利恭(としゆき)と16代(17人)にわたって在封した。この間、1634年に徳川家光(いえみつ)によって陸奥国北・三戸・二戸・九戸・鹿角・閉伊・岩手・紫波・稗貫・和賀の10郡10万石の所領が公認された。1664年(寛文4)相続問題で内紛が生じ、八戸藩2万石を割いて8万石となったが、1683年(天和3)新田が加増されて10万石に復した。中期以降の盛岡藩は財政窮乏に悩まされ、またしばしば凶作・飢饉(ききん)に襲われた。百姓一揆(いっき)も他藩に比べて多く、とくに1847年(弘化4)と1853年(嘉永6)の三閉伊一揆は規模も大きくて有名である。1808年(文化5)蝦夷地(えぞち)警衛により領域はそのままで20万石に格上げされた。戊辰(ぼしん)戦争のとき奥羽越列藩同盟に加わったかどで白石(しろいし)(宮城県)13万石に減転封されたが、まもなく旧領に復し、1870年(明治3)廃藩置県により盛岡県を経て岩手県となった。
[細井 計]
『森嘉兵衛著『岩手県の歴史』(1972・山川出版社)』▽『森嘉兵衛著『盛岡市史 近世1・2・3』(1956、1968、1969・盛岡市)』
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