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真田氏【さなだうじ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

真田氏
さなだうじ
清和源氏海野氏の後裔幸隆が安土桃山時代,信濃国小県真田荘松尾城に住して真田氏を称したことに始る。幸隆のあとは長男,次男ともに長篠の戦いで討死にしたため,3男昌幸が家督を継ぎ,信州上田を領有した。天正8 (1580) 年には上州沼田城を攻略して属領とした。関ヶ原の戦いでは次男幸村とともに西軍に属して敗れ,紀州九度山に幽居した。のち幸村が大坂の陣で戦死し,東軍に属した長子信之が上田城,沼田城を与えられ,のち信州松代 10万石に転封。長子信吉を沼田3万石に分封,松代藩は次子信政が継いだ。沼田藩は天和1 (1681) 年除封。松代藩は9代続いて明治にいたり伯爵

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世界大百科事典 第2版

さなだうじ【真田氏】
信濃国小県(ちいさがた)郡を根拠にした豪族。清和源氏海野(うんの)氏流といわれる。1400年(応永7)の大塔合戦で戦った者の中に実田(さなだ)氏が見られる。戦国時代,真田幸隆甲斐武田信玄に属し,武田氏の信濃攻略に大きな役割を果たした。幸隆のあとは信綱が継ぎ,信玄,勝頼に仕えたが,1575年(天正3)の長篠の戦で弟昌輝とともに討死した。家督を継いだ三男昌幸は,武田氏滅亡後も後北条,徳川,上杉らの勢力の間をぬって小県,上野国沼田の領地を確保した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

真田氏
さなだうじ
戦国以来信濃国(しなののくに)(長野県)に根拠を有した武士の一族。発祥地は信濃国小県(ちいさがた)郡真田(上田市)で、海野(うんの)氏より出たとされる。天文(てんぶん)年間(1532~55)、幸隆(ゆきたか)が甲斐(かい)武田氏に属し、信玄(しんげん)の信濃侵攻に参加したことにより勢力を伸ばし、武田氏の末期から上野(こうずけ)北部に侵攻し、その滅亡とともに、小県郡および上野国吾妻(あがつま)地方を領有する小戦国大名として自立した。さらに、長篠(ながしの)の戦いで戦死した兄信綱(のぶつな)の後を受け、家督を継いだ幸隆の三男昌幸(まさゆき)は、1583年(天正11)本拠地を上田に移し、小県郡支配をより明確なものとした。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いにおいて、昌幸と二男信繁(のぶしげ)(幸村(ゆきむら))は西軍、嫡男信幸(信之)(のぶゆき)は東軍に分かれて戦い、西軍敗北により昌幸、信繁は高野山(こうやさん)に幽閉された。こののち昌幸は高野山で没し、信繁は1614年高野山を脱出し、大坂冬の陣・夏の陣に大坂方として参戦し、戦死した。一方信幸は、関ヶ原の戦いののち昌幸の旧領を安堵(あんど)され、上田城を居城とした。1622年(元和8)上田から松代(まつしろ)(長野市)へ転封となり10万石を領した。松代移封当初は財政も豊かであったが、しだいに窮乏した。6代幸弘(ゆきひろ)が恩田木工(おんだもく)を登用して、倹約を中心とした財政の立て直しを図ったことは『日暮硯(ひぐらしすずり)』で有名である。また真田家は、7代幸専(ゆきたか)を井伊(いい)家から、8代幸貫(ゆきつら)を越前(えちぜん)松平(まつだいら)家から、10代幸民(ゆきたみ)を伊達(だて)家から迎えて家を存続させ、幸民のとき明治維新を迎え華族となった。[郷道哲章]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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