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石川啄木【いしかわ たくぼく】

美術人名辞典

石川啄木
歌人・詩人・思想家。岩手県南岩手郡日戸村(現玉山村)の常光寺で生まれる。本名一、別号に白蘋等。盛岡中学中退後、明星派人として出発。20才で処女詩集『あこがれ』を出版、詩人として知られるようになった。渋民小学校代用教員を経て、北海道に職を求め新聞記者として各地流浪。明治41年(1908)上京。42年『東京朝日新聞』の校正係となるが、なおも窮乏の生活は続く。しかしその創作意欲は短歌によって表現され、歌人としての新生面をひらく。43年12月、三行書の歌集一握の砂』を出版、歌壇内外から注目された。同年6月大逆事件に衝撃を受け社会主義思想に接近、新しい時代の波に対し、土岐善麿と提携して文芸思想雑誌『樹木と果実』の発行を計画するが実現せず、45年(1912)肺結核のため小石川区久堅町の借家に波乱に富む生涯を閉じる。享年27才。代表作に歌集『悲しき玩具』、詩集『呼子口笛』等がある。

出典:(株)思文閣

朝日新聞掲載「キーワード」

石川啄木
1886(明治19)年、南岩手郡日戸(ひのと)村(現・盛岡市玉山区)で生まれた。渋民村(同)の宝徳寺で育ち、盛岡中に通った。友人の影響で文学を始め、短歌や詩集を発表。代用教員や北海道での放浪をへて上京し、朝日新聞の校正係、歌壇の選者を務める傍ら、創作活動を続けた。1910(明治43)年12月1日、雑誌や新聞に発表した短歌など551首を載せた第一歌集「一握」を発刊。1首を3行書きにしたことや編集の巧みさが評価された。12(明治45)年4月に肺結核で26歳の生涯を閉じた。第二歌集は「悲しき玩具」。
(2010-12-14 朝日新聞 朝刊 岩手全県 1地方)

出典:朝日新聞掲載「キーワード」

デジタル大辞泉

いしかわ‐たくぼく〔いしかは‐〕【石川啄木】
[1886~1912]歌人・詩人。岩手の生まれ。本名、一(はじめ)。若くして「明星」に詩を発表し、与謝野鉄幹師事。口語体3行書きの形式で生活を短歌に詠んだ。評論時代閉塞の現状」、歌集「一握の砂」「悲しき玩具」、小説雲は天才である」など。

出典:小学館
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

石川啄木 いしかわ-たくぼく
1886-1912 明治時代の詩人,歌人。
明治19年2月20日生まれ。石川節子の夫。詩集「あこがれ」で将来を期待されるが,生活のため郷里の岩手県渋民村の代用教員や北海道の地方新聞の記者となる。のち東京朝日新聞の校正係の職につき,歌集「一握の砂」を刊行,近代短歌に新領域をひらいた。大逆事件で社会主義に目ざめるが,明治45年4月13日貧窮のうちに結核で死去。27歳。死後歌集「悲しき玩具」が出版された。盛岡中学中退。本名は一(はじめ)。評論に「時代閉塞の現状」など。
【格言など】東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる(「一握の砂」)

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

いしかわたくぼく【石川啄木】
1886‐1912(明治19‐大正1)
明治期の歌人,詩人,評論家。岩手県生れ。本名一(はじめ)。北岩手郡渋民村の宝徳寺に育った。県立盛岡中学中退。在学中に《明星》系の浪漫主義文学に触れて詩人を志し,1905年,愛の至上性を歌う詩集《あこがれ》を刊行し,天才少年詩人の名をはせた。しかし同じころ結婚し,また父が失職して生活難に直面させられ,詩情に衰えをきたし,小説にを転じた。07年に北海道に渡り各地を流転したが,翌年には単身上京し創作に専念しようとした。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

いしかわたくぼく【石川啄木】
1886~1912 歌人・詩人。岩手県生まれ。本名、一はじめ。与謝野鉄幹の知遇を得て明星派の詩人として出発。貧困と孤独にさいなまれながら明治末の「時代閉塞」に鋭く感応し、社会主義的傾向へ進むが、肺結核で夭折ようせつ。歌集「一握の砂」「悲しき玩具」、詩集「呼子と口笛」、評論「時代閉塞の現状」など。

出典:三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

石川啄木
いしかわたくぼく
[生]1886.2.20. 岩手,日戸
[没]1912.4.13. 東京
詩人,歌人。本名,一 (はじめ) 。盛岡中学校中退 (1902) 後上京し,与謝野鉄幹の新詩社に入り,処女詩集『あこがれ』 (05) によって文名を得た。しかし生活には常に恵まれず,職を求めて北海道を放浪 (07~08) ,上京後,歌集『一握の砂』 (10) により生活歌人として確固たる地位を築いた。貧困と孤独のなかにも希望を捨てず,大逆事件 (10) を契機に社会主義思想に接近し,生前未発表の評論『時代閉塞の現状』 (10) は自然主義の無思想性を批判し,国家権力の直視と明日への待望を説いて,啄木の思想の根底を示している。『明星』風の抒情性を残しながら,生活感情を大胆率直に表現した作風は,死後「民衆の詩」として強い影響を残した。代表詩集『呼子と口笛』 (11) 。代表歌集『悲しき玩具』。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

石川啄木
いしかわたくぼく
(1886―1912)
歌人、詩人。本名一(はじめ)。明治19年2月20日、岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現、盛岡(もりおか)市玉山(たまやま))に生まれる。父はこの村の曹洞(そうとう)宗常光寺住職石川一禎(いってい)。母カツは一禎の師僧葛原(かつらはら)対月の妹。1887年(明治20)の春一禎は北岩手郡渋民(しぶたみ)村(現、盛岡市渋民)宝徳寺の住職になったので一家はこの村に移った。啄木が生涯「ふるさと」とよんで懐かしがったのはこの渋民村で、現在石川啄木記念館がある。
 啄木は岩手郡渋民尋常小学校を卒業後、盛岡高等小学校に進み、1898年4月13歳のとき、128名中10番の好成績で岩手県盛岡尋常中学校に入学した。しかし上級学年に進むにつれて文学と恋愛に熱中して学業を怠り、4年生の学年末と5年生の1学期の試験にカンニング事件を起こし、これが原因となって盛岡中学校を退学した。やむなく彼は文学をもって身をたてるという美名のもとに1902年(明治35)の秋上京、新運命を開こうとするが失敗、年末、神田の日本力行会(りっこうかい)に勤務する友人の奔走で、金港堂の雑誌『文芸界』の主筆佐々醒雪(さっさせいせつ)を頼って雑誌の編集員として就職を希望するが実現せず、翌1903年2月帰郷して故郷の禅房に病苦と敗残の身を養った。
 1902年の夏、アメリカの海の詩集『Surf and Wave』の影響を受けて詩作に志した啄木は、その後与謝野鉄幹(よさのてっかん)(寛(ひろし))の知遇を得て東京新詩社の同人となって『明星』誌上で活躍、1905年5月には東京の小田島書房より処女詩集『あこがれ』を刊行、明星派の詩人としてその前途が嘱望された。しかし前年の暮れ、啄木の父が宗費滞納を理由に曹洞宗宗務局より宝徳寺の住職を罷免されたので、一家はこの年の春盛岡に移り、啄木はやがて堀合節子(1886―1913)と結婚して一家扶養の責任を負うことになる。まもなく生活に行き詰まったため1906年の春渋民村に帰り、母校の代用教員となった。彼は勤務のかたわら再起を図るため小説家を志し、『雲は天才である』『面影』『葬列(そうれつ)』を書き、また曹洞宗宗憲の発布で特赦となった一禎の宝徳寺復帰に努力した。しかし1年後、小説にも父の再住にも失敗して故郷を去り、北海道に移住するのである。
「石をもて追はるるごとく/ふるさとを出でしかなしみ/消ゆる時なし」
 1908年(明治41)の晩春、北海道より上京した啄木は創作生活に没頭、上京後1か月余に『菊池君』『病院の窓』『母』『天鵞絨(ビロード)』『二筋の血』など五つの作品300余枚の原稿を書き、その小説の売り込みに奔走したが失敗、ために収入なく生活は困窮した。1909年の春彼を窮地から救い東京朝日新聞社の校正係に採用したのは、盛岡出身の同社編集部長佐藤北江(ほっこう)(真一)で、啄木はようやく定職を得て、東京・本郷区弓町二丁目(現、文京区本郷)の喜之床(きのとこ)(新井(あらい)こう)の2階に家族を迎えて新生活を始めることができた。1910年9月社会部長渋川柳次郎の厚意で「朝日歌壇」の選者となり、この年の暮れ処女歌集『一握(いちあく)の砂』を刊行。その特異な三行書きの表記法と、「生活を歌う」主題の新鮮さは歌壇内外の注目を浴び、第一線歌人としての地位を確立した。またこの年6月の大逆事件に衝撃を受けて社会主義思想に接近、幸徳秋水やロシアの思想家クロポトキンの著作を愛読して、未来のソシアリスティックな日本を思い描いたが、東京時代につくられた歌集『一握の砂』『悲しき玩具(がんぐ)』、詩集『呼子(よぶこ)と口笛』、評論『時代閉塞(へいそく)の現状』などの代表作は、そうした晩年の思想や生活のなかから生まれたもので、天才啄木の名を不朽のものとした。明治45年4月13日、小石川区久堅(ひさかた)町74番地(現、文京区小石川5-11-7)の借家で肺結核で死んだ。享年27歳。文字どおり薄幸にして流亡の生涯であった。[岩城之徳]
 呼吸(いき)すれば、/胸の中(うち)にて鳴る音あり。/凩(こがらし)よりもさびしきその音!
『『石川啄木全集』全8巻(1978~1980・筑摩書房) ▽岩城之徳著「啄木歌集全歌評釈」(『別冊国文学 石川啄木必携』所収・1981・学燈社) ▽今井泰子著『石川啄木論』(1974・塙書房) ▽岩城之徳著『啄木評伝』(1976・学燈社) ▽沢地久枝著『石川節子・愛の永遠を信じたく候』(1981・講談社)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

いしかわ‐たくぼく【石川啄木】
明治末期の浪漫派の歌人、詩人。本名一(はじめ)。岩手県生まれ。与謝野鉄幹夫妻に師事。口語体の三行書きによる生活派の歌をよんだ。また評論「時代閉塞の現状」などで社会主義への関心を示した。歌集「一握の砂」「悲しき玩具」、小説「雲は天才である」など。明治一九~四五年(一八八六‐一九一二

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旺文社日本史事典 三訂版

石川啄木
いしかわたくぼく
1886〜1912
明治時代の詩人・歌人
本名は一 (はじめ) 。岩手県の生まれ。盛岡中学中退。早くから明星派のロマン主義的詩人として知られた。北海道・東京など各地を転々とし,貧苦病苦の中で,生活に即した平明な3行書きの短歌をよむ。晩年,社会主義思想に傾斜。肺結核で死亡。代表作に小説『は天才である』,歌集『一握の砂』『悲しき玩具』,評論『時代閉塞の現状』など。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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